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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2010/09/26(日) 「彼の上に太陽が昇った」 内貴八郎右衛門牧師
献堂14周年記念礼拝 (聖書)創世記32:23〜32

(挨拶)
神戸ひよどり台教会は1986年3月に伝道所を設立。そして1991年4月に明石上ノ丸教会から独立して「日本フリーメソジスト神戸ひよどり台教会」を創立。そして1996年9月に新会堂を献堂、主の憐れみにより、本日、献堂14周年を迎えました。この記念すべき時に招かれて礼拝のご用をさせて頂ける事に感慨深いものがあります。主の恵みに感謝します(み言・申32章7節)

序 論:
 ヤコブは主の目から見てあまり好ましい人物ではありませんでした。では何故このように人物を主はあえて選んで立てたのか?その答えは「私たちも主に選ばれる」ためでありましょう。
ヤコブとは「押しのける者」「人の引っ張る者」と言う意味があります。(実は、私たちもヤコブと同じような悪しき罪や弱さを持っています。)
 創世記25:27〜34によると兄エサウから狡猾な方法で欺いて長子の権利を奪い、さらに27:18〜29で父の祝福をも奪っています。その結果、彼は兄の殺意を含んだ怒りにふれて、叔父のラバンの所に逃亡し、20年間そこに滞在します。やがて、彼は家族や財産を伴って帰郷することになるのです。

本 論:
 今日のみ言葉によると、その途上においてヤコブはヤボクの渡しで、家族や使用人や財産を兄エサウのいる向こう岸に渡らせた後、一人残って夜通し、何者かと格闘し、腿の関節がはずれます。神が彼の傲慢さ、狡猾さ、自己中心性を全く打ち砕かれたのです。実は、神が打ち砕かれなければ誰1人として神の恵みに預かる事は出来ません。
 ヤコブはヤボクの渡しで神と格闘する(神と向き合って夜を徹して苦悶の中で激しく祈ること)ことによって、今までの自分の力に頼り、自己中心に生きる傲慢さを打ち砕かれたのです。
(それが「腿の関節がはずれた」意味です)ヤコブのように神様に打ち砕かれる事によって生まれ変わる事が出来るのです。神は「打ち砕かれた心」を求めておられます。(イザヤ53章5節)
どんなに罪深い人でも神に打ち砕かれる事によって造り変えられ、赦され、神のみ心に叶う者とされるのです。ヤコブのように、いいえ、それ以上に罪深い私たちも神様に打ち砕かれること
によって造り変えられ、祝福される者となるのです。

(むすび)
 ヤコブがペヌエルを過ぎた時に「太陽は彼の上に昇った」のです。ヤコブはペヌエル(神の顔)で敬虔な、神聖な経験をすることによって彼の上に太陽の光がさんさんと輝いたのです。祝福されたのです。あのような罪深いヤコブが造り変えられ、イスラエルの先祖とされた事は私たちの大きな慰めです。主に感謝します。

2010/09/19(日) )「喜びに生きる〜リジョイス」岩瀬謙一兄(東住吉キリスト教会勧士)
特別信徒礼拝 (聖書)コヘレト3:12〜13

(はじめに)
 私たちは日常生活の中でどれだけ「喜んでいる」と言う言葉を使っているでしょうか。神様は私たちに「いつも喜こんでいなさい」(1・テサロニケ5章16節)と求めておられます。今日はみ言葉を通して「喜びの大切さ」を学びます。コヘレトのみ言葉は神から離れて平安を見つけようとした人がそこに空しさしかない事を悟った、光の無い人生論から神の恵み・光について語っています。

(みことば)
 「人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ」(12節)と言うみ言葉は最もこの世的な言葉ではないでしょうか。「コヘレト」とは「集める」と言う意味があります。コヘレトは神様に関するあらゆる物を一生懸命努力して集めたこれらの物が一体何の役に立つのか?全ては無駄ではないのかと言う事に気づいた時に楽しくなくなり、面白みがなくなりました。
 そんな時に、私が苦しんだ時に神様は力づけ、慰め、助けてくださった事に気づきます。この事を知らせたいと思って書いたのがコレヘトの書です。「私が苦しい時、辛い時、神様は助けてくださった。神様が守っていてくださるから毎日楽しく生きる事が出来るのだ」と言うこの大切な事を知らせたいと思って書かれた書物なのです。

(むすび)
 著者は「知識、楽しみ、娯楽、冨等を求めましたがそれが全て空しいものだ」と気づいた時に「飲み食いし、その労苦によって満足」(13節) するように勧めます。快楽的な飲み食いではなくて、自分の真面目な労働によって飲み食いし堅実な生活、堅実な一生を送る事が神様の賜物であると勧めています。

 私たちは神様が支配されているこの世の全てのものを見極める事は出来ません。そのような中で「喜び楽しむ一生」は神様の賜物なのです。
 毎日喜んで過ごす事、苦しみの中にあっても神ゆえに喜びを得る事が出来る、この喜びに与って私たちも毎日喜びをもって生きていきたいと思います。今日のみ言葉は「人間が一番しあわせなのは、毎日喜んで過ごす事〜それが神様の賜物だと気づく事」が大切だと教えています。私たちが毎日喜んで過ごす時に、神様は喜んでくださいます。リジョイスです。主において常に喜びましょう。リジョイス! 

2010/09/12(日) )「再び、みことばに生かされて」大嶋博道
総員礼拝・聖餐式 (聖書)ローマ12:9〜21

序論:
 私たちクリスチャンにとって「みことばに生かされる」と言う事は信仰生活の柱であり、基軸です。ジョン・ウエスレ−は「みことばを食べなさい」「良くかみ砕いて味わいなさい」「それを心の中におさめなさい」と言っています。彼はバイブル党でした。ジョン・ウエスレ−の日々の生活で拠って立つ根拠はただ「聖書」でした。

 さて、私たちが「みことばに生かされる」とは、どういうことでしょうか?

@みことばに養われる、育まれると言う事です。
Aみことばに自らの生き方を示されると言う事です。
Bみことばに励まされ、勇気づけられると言う事です。みことばが私たちの決定的な節目を健全に導き、支えると言う事です。

本論:

 今日の聖書のみ言葉はクリスチャンとしての生き方、生活の営みについて教えています。それはみ言葉を通して次の7つの生き方について教えています。

@「みことばに生かされた歩み〜謙虚な生き方」(12章10節)
A「怠けないで霊に燃えて仕える生き方」(12章11節)
B「継続的に祈る生き方」(12章12節)
C「聖なる者・旅人を助け、隣人をもてなす生き方」(12章13節)
D「自分のためにならない者(迫害者)のためにさえ、祝福の祈りをなす生き方」(12章14節)
E「共感的な生き方〜人の幸せを共に喜び、悲しみを共に悲しむ事の出来る生き方」(12章15節)
F「全ての人と人間関係を円滑に保つ生き方」(12章18節)
 
 祈って、みことばに生かされていながら、自分の願いとは異なる生き方が示される事があります。そんな時にも私たちがみことばに生かされて生きると言う事はどういう事なのかと言う事を今一度考えてみる必要があります。

まとめ:

 全ては神様のご計画の中にある、と感謝して受け止める事が出来るように日ごろからみことばに学び、そしてみことばに生かされて、みことばに支えられて生きていきたいものと思います。
皆様の上に主のお恵みが豊かにありますようにお祈りします。

2010/09/05(日) 「溢れる賛美の人生」大嶋博道牧師
賛美礼拝 (聖書)詩編98:1〜6

序 論:
 ハーレル・ヤーハ
(主をほめたたえよ)、このような賛美は「乗り物のようなもの」とある牧師が語った。賛美することをとおして神様の側に近づくことが出来る。私達が神様を賛美しようとするとき、それは音楽という「媒体」を用いて自分自身を神様の前に置こうとしているのである。
出エジプトの指導者モーセは紅海の奇跡のあと、神の御名をほめたたえて、声高らかに「勝利の歌」
」を歌った。(出エジプト15:1〜)

本 論:
 主を賛美するということはどのような意味があるのだろうか?

1)人間が神に創造された目的そのものである
「主を賛美するために民は創造された。」(詩編102:19参照)人間はなぜ神のかたちに似せて創造されたのか?それは、私たちがその生き方をとおして、神様の栄光を顕すため。だから、神様の愛のすばらしさを知った人であるなら、誰でも神様をほめたたえることができるのである。

2)主を心から喜ぶこと
(ネヘミヤ8:10、イザヤ61:10)
ネヘミヤ8:10「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」イザヤ61:10「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。」ヤコブ5:13「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」私たちは罪が赦されたこと、生ける神との日ごとの交わり、恵みに感謝し、喜びの歌を主に捧げるべきである。

3)神様への心からの感謝そのもの
 賛美は、神の計り知れない大きな愛を知った者が、心を尽くしてその愛に応えたいという心の現われ。だから、賛美の基本は「感謝」である。詩編106:1「ハレルヤ。恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」

(4)主を証しするもの(伝道の働き)
 さんびは神様を身近にお招きするものあるが、人々を信仰に導く事ができる。賛美をとおして、主を証しし、福音を宣べ伝えている人が多くおられる。使徒16:31〜「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ讃美の歌を歌っていると、ほかの囚人達も聞き入っていた。」

まとめ:
 神様を賛美するということは、その人自身が何かしらのすばらしい出来事に遭遇して、それが神様の力
によってなされたことであることを認め、それを喜びつつ、その御業の源である神様をほめたたえるというのが賛美である。
第一テサロニケ5章16節〜18節を開いて祈りましょう。


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