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2011/01/30(日) 「共に生きる群れを目指して」大嶋博道牧師
 特別礼拝(標語の学び) (聖書)フィリピ2:1〜11(特に2:2)

(何故この教会標語なのか?)
 今日は2011年の神戸ひよどり台教会標語「共に生きる群れを目指して」〜教会創立20周年、心燃えて新たな第一歩を!(フィリピ2章2節)を学びます。
何故この標語を選んだのか?それは
@現代社会の特徴(少子高齢化/科学万能社会/価値観多様化社会/規制枠崩壊社会)とA聖書の特徴(神が私たち人間と共におられる)及びB教会の必要性(教会創立20周年の節目を迎えている)にあります。

(序 論)
 使徒パウロは「みな同じ心を持って欲しい」と2章2節で言っています。つまり、賜物の相違を越えてキリストのからだなる教会に仕えていこうとする思いが共通であって欲しいと願っています。それは逆説的な言い方をすれば@何事も利己心(党派心)からするなA何事も虚栄からするなB自分のことばかり考えるな、と言うことです。
即ち私たちに求められていることは
@へりくだる(謙虚)こと
A相手を自分より優れた者と認めること
B他人のことにも注意を払うことです。

(本 論)
 「共に生きる群れを目指して」と言う教会標語で私たちが今求められていることは次のとおりです。
@「1人の礼拝者として神と共にみことばに生きる」ことがその第1のことで す。キリスト者の霊性が支えられ、成長するのは単独(1人)にな って神と向かい合ってみことばと祈りに生きることが大切です。

A第2のことは「神の家族として信徒と共に交わりに生きる」ことです。そ れは「主にあって兄弟姉妹だからです」お互いが連なっており、 他者の存在に気づき、他者と共に喜び、悲しみ、お互いに補い合 い、そして同じ目標に向かって生きる「愛の共同体」となること が大切です。

B第3のことは「家族と共に健全な家庭を築き上げる」ことです。使徒1 6章31節に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家 族も救われる」とある通りです。教会の祝福は信徒の家庭に波及 して行かなければなりません。

C第4のことは「開かれた教会として地域と共に人々の痛みを担って生きる」 ことです。教会は地域の中に置かれています。地域と共に生きる 教会であることが必要です。

Dそして最後に「日本や世界と共に生きる」と言うことです。内村鑑三先 生は「私は日本のために、日本は世界のために、世界は神のため に」と言われました。マルコ16章15節には[全世界に行って、 すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」とあります。

(まとめ)
 イエス・キリストに贖われた者として共に信じ、共に歌い、共に祈り、共に生きる豊かな群れ、神の家族でありたいと思います。

2011/01/23(日) 「主よ、もしあなたがここに」大嶋博道
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)ヨハネ11:1〜46(22、32)
(はじめに)
私たちの人生には「何故?」と問いたくなるような出来事が生じて人生設計が大幅に変わってしまう事があります。私たちクリスチャンはその時に「主よ、あなたの御心はどこにあるのですか」と祈り求める事が大切です。

(聖書の物語から)
 イエスはエルサレムから3キロほど離れたベタニヤ村に住むマルタとマリアの姉妹とその兄弟ラザロを愛して、よく訪れていました。 ある日、姉妹はイエスのもとに人を使わして人を使わして「あなたの愛しておられる者(ラザロ)が病気です」と伝えました。しかし、イエスは、ラザロの病気(重病)のこと知りながらも、スグに訪れず、なおも「二日間」同じ所に滞在されたのです。

 イエスが行かれた時にはラザロはすでに墓に葬られていました。イエスはラザロの病気をとおして神の栄光が現されると述べ、さらに、ご自身がその場に居合わせなかったのは彼らにとって良かったとまで述べています。(11:4,15)(イエスがすぐに訪
れなかったのは神のみ心だ、と言うのです。)この事ではマルタとマリヤは「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら・・・」と、イエスに怒りの叫びを発したのです。マルタとマリヤの経験は私たちの信仰経験でもあります。
 神が「然り(Yes)」と言われれば、私たちは喜んで「御心」を受け入れる事が出来ます。そして神が「否(No)」と言われれば、それを受け止めることも出来ます。
しかし、私たちにはしばしば神のみ心が分からないことがあります。神の御心と人間の思いが異なる事があると言う事を心に留めたいと思います。

(神のみ心を知るために)
では、神の御心を知るために私たちはどうしたら良いのでしょうか?次の3つの事を心に覚えて頂きたいと思います。

@み言葉に傾聴する事が第1の事です。普段からみ言葉を聴く、即ち聖書のみ言葉に聴く事が大切です。

A祈り〜継続的な祈りをする事が第2の事です。イエスもゲッセマネで神の御心を求めて切に祈られました。祈りにおいて、私たちは神の導きを求めるのであって、私たちの考えを神に押しつけるのではありません。祈りをとおして、思いがきよめられ、願いが純粋になり、信仰が高められ、祈りによって神の御心を敏感に悟るようになるのです。

B礼拝者として神の御前に近づく事が第3の事です。礼拝とは主の前にひれ伏し、主権を神に明け渡すことなのです。全き信頼と期待と服従をもって神の御心と向き合うのがこの礼拝の場なのです。

(まとめ)
 今日のみ言葉の22節に注目して欲しいと思います。「しかし」とあります。この「しかし」は神のみ心を最優先する「しかし」です。その結果44〜45節にあるように神様は姉妹の祈りに応えられました。
神の栄光は何にもまして、私たちの苦しみの中にはっきりと顕れる」とルタ−が言っていることは真実な事です。神のみ心を求め、神のなさる事を信じて受け入れて自分を神様に明け渡す事が出来るように「み言葉に聴き」「祈り」「礼拝を守る」生活を継続したいものです。祝福をお祈り致します。

2011/01/16(日) 「信仰の継承」畑中康雄勧士
信徒礼拝(聖書)マタイ1:1〜17

(系図の意味)
マタイによる福音書が「系図」から書き始められていると言う事から次の2つの事を学ぶ事が出来ます。

@その第1はイエスが「旧約聖書で預言されている救い主である事」を説明する事です。ヤダヤ人には系図は大切でした。イエスが「救い主である事」と「ユダヤ人である事」と「ダビデの子孫である事」を明らかにするために「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と書かれています。

A次に第2の事はこの系図の中には「タマル」「ラハブ」「ルツ」「ウリヤの妻(バト・シェバ)」と言う4人の女性が含まれていると言う事です。ユダヤ人の系図には女性は記録されないのが普通でした。そしてなお驚くべき事にこの4人の女性は当時は好ましいとは思われていなかった女性です。即ちルツは「異邦人」、タマルは「近親相姦」の罪を犯し、ラハブは「遊女」でした。そしてウリヤの妻は「ダビデの姦淫の相手」でした。イエスの系図の中に女性が、そして異邦人とか罪ある身である人物が入っている事はこの福音が全人類への福音・良きおとずれである事を示めしています。

私の父は「私たち夫婦が教会に行っている」と言う事で、母は「家族揃って教会に行き、共に聖餐に与りたい」と言う事から洗礼を受けました。私は友達と共に訪れた教会で「ザアカイ物語を聞いて」そして妻は「もし天国があるのならそちらに賭けてみよう」と思って、私の子どもたちは小さい時から教会学校に行っていたのでごく自然に洗礼を受けました。このようにごく自然に信仰の継承がなされているのが我が家です。

(信仰の継承の勧め)
使徒言行録にはパウロがどの様にして主の召命を受けて回心したかが書かれています。洗礼を受けるのにこの様な劇的な経験をされた方もあると思うのですが、私たち一家のように特別な動機もないままに洗礼を受け、淡々とした信仰生活を送っている者もあります。そしてイエスはその方々お1人お1人のために生まれてくださり、十字架に架かってくださったのです。
 既に洗礼を受けられた方、そして洗礼に導かれたいと祈られている方にこの事を知って頂き「私たちの命が先祖から延々と受け継がれて来た」ように「クリスチャンとしての信仰の継承」が着実になされていくようにとお祈りします。

2011/01/09(日) 「光のある間に」大嶋博道牧師
新成人祝福礼拝 (聖書) ヨハネ12:35〜36

(新成人おめでとう)
 今日は新成人祝福礼拝を守ります。新成人を迎えられる方おめでとうございます。
本日は新成人を迎えられる方、未だ神様を受け入れておられない方を中心にメッセ−ジをさせていただきます。

(暗闇に追いつかれないように歩む)
 2000年前の主イエスの時代には、電気がありませんでした。太陽、月そして星が私たちを照らす光でしたが、基本的には夜などは暗闇が支配していました。
 ところで、人生は一方通行です。行く事は出来ますが引き返す事は出来ません。また、予行演習(リハーサル)も出来ません。闇夜を歩くような人生においては、今日のみ言葉にあるように「暗闇に追いつかれないように、光のある間に」歩かねばなりません。
 暗闇と言うのは元々は神様に反対する勢力を言います。「老年」(人生の最期)に差し掛かった状態を言います。また「死」を意味します。生きる意欲を削がれてしまうのが暗闇です。み言葉に、「暗闇に生きる者はどこに行くのか分からない」とあります。光は今暫くは私たちの間にありますが、その光を見ないならば暗闇は追いついて来ます。光の子となるためには、光のある間に光を信じる事です。

(光のある間に、光の子となる)
 「光」は神を意味します。「光」はイエス・キリストです。光〜キリストを信じて幸いな時を持ちなさい、キリストがあなた方の間にあるうちに、と今日の聖書は教えています。もう遅いと諦める事はありません。今からでも遅くはないので、光を信じて光に飛び込むのです。未だ、光を信じていなくて、これから信じようとしている方は光のある間に光を信じて欲しいのです。
 新成人祝福礼拝に当たって、この事を強くお勧めします。特に、若い方々に今日のこのメッセ−ジをお勧めします。皆様が「光のある間に、光に歩まれますように〜光の子となられますように」お祈りいたします。

2011/01/02(日) 「今年も安心して行きなさい」大嶋博道牧師
大人・子ども新年合同礼拝(聖書)ヨシュア記1:1〜9及び申命記11:12

(新年の挨拶)
 明けましておめでとうございます。今年は1月1日が土曜日という事で元旦礼拝がありませんでしたので、昨日はゆったりとした新しい年の初めを過ごされたのではないでしょうか。私もお節料理の謂われをかみ締めながら頂き、和やかな一日を過ごしまし
た。

(1年が祝されるための序論)
 1年の計は元旦にあり、と言われます。何事も初めが肝心です。今年も主のみ手の中で祝福された1年でありますように全ての業を主のみ手に委ねたいと願います。
神様が全てを祝してくださるように、全てが神のご計画となるようにと神の豊かな祝福をお祈りします。

 さて、今日のみ言葉、特に1章7〜8節からモ−セの後継者であるヨシュアに対して神様がされた約束は「強く雄々しくある事」「律法に忠実である事」でした。そうすれば勝利を得る事が出来ると約束されました。ヨシュアには
@ヨルダン川を渡らねばなりませんでした。
A約束の地カナンの先住民との戦いと土地の配分と言う仕事を成し遂げなければなりませんでした。
B子孫に神の祝福を伝えて行かねばなりませんでした。即ち「信仰の継承」です。この大きな使命に恐れおののいていたヨシュアに対して神は「うろたえてはならない。主は共に居る」と、励ましと共に大きな約束をされました。

(今年1年が最善に導かれるための本論)
 聖書を1番目につく所に置いて昼も夜も口ずさむ事、聖書を味わって頂きたいと思います。具体的には
@神との霊的な交わり(デボ−ション)の時を1日に1回は持つ事が第1の事です。
A礼拝者として生きる〜神の前に立ち止まる時を持つ事が第2の事です。
B神と共に生きる群れとなる〜家族、近隣の方々、教会の兄弟姉妹とそして全世界の人々と共に生きる群れとなる事がその第3のことです。そして
C第4番目に大切な事は霊に燃えて主に仕える生き方をすることです。(ローマ12:11)
(今年の約束事)
 今年1年間はお互いに「不平不満を言わない」1年としていものです。まとめとして申命記11章12節のみ言葉を以て新年礼拝説教を締めくくります。「…あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わるまで、常に目を注いでお
られる…。」


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