ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2011年10月
前の月 次の月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

直接移動: 20163 月  20153 1 月  201412 11 10 9 8 7 月  20139 8 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 月 

2011/10/31(月) 「教会とは」畑中康雄勧士
 創世記11:1〜9/使徒言行録2:1〜4

(プロロ−グ)
 教会とは何でしょうか。教会を意味する「エクレ−シア−」には「呼び集める」と言う意味があります。即ち神によって呼び集められた会衆、神の民を意味します。新約聖書の時代には「場所を問わず、礼拝のために共に集まった信徒の集まり」を意味しており、新約聖書全体を通して「教会」と言う言葉が「建物」としては用いられてはいない事に注意したいと思います。
教会は
@「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主である。」とありますように「キリストを頭とする存在」です。
A「キリストの体である教会のために…わたしは教会に仕える者となりました。」とあるように「キリストの体」です。

(バベルの塔から学ぶ)
 神様から祝福されたノアの子孫は繁栄しました。だが成功した事が原因で人々の信仰はノアの正しい信仰の道から遠ざかっていきました。成功は神の恵みによるのではなくて自分たちの才能と努力の結果であると思うようになりました。この傲慢さの結果、天にまで届く塔を建てる計画を立ててしまったのです。この塔の名前を「バベル」と言います。言葉の混乱です。それは「言葉が乱された」という読み方以外に、以前と全く同じ言葉をつかっているのにも拘わらず、人々の主義や主張が分裂したためにバベルの塔を立てると言う共同の作業が出来なくなってしまったと言う読み方も出来ます。私たちの身の回りにもこのような事があるのではないでしょうか。

(ペンテコステに学ぶ)
 このような「バベル=混乱」は神が遣わしてくださる「メシヤ=救い主キリスト」によって解消され、再び人間は神によって赦され、神と和解する事が出来るとの約束が与えられました。ここ
で大切な事は4節にある「霊に満たされ、霊が語らせるままにほかの国の言葉(それを聞いた人たちが理解出来る言葉)で話し出した。」という事です。即ち、教会とは「霊に満たされ、霊が語らせるままにそれを聞いた人たちが分かる言葉でイエスを語り、イエスの名によって悔い改め、罪の赦しを受け、イエスの名を宣べ伝える働きをする」ところなのです。

(まとめ)
 私たちの家庭は、職場は、そして教会は「バベルの状態」にはなってはいないでしょうか。神のみ言葉を中心とした生活をする事により家族の、隣人の言葉が理解出来るように、そして
教会の働きである「霊に満たされ、霊が語らせるままにそれを聞いた人たちが分かる言葉でイエスの事を語り」それを聞いた人々と私たちの心にキリストの平和があるようになりたいものと願います。  

2011/10/23(日) 「本当に豊かな人生」 大嶋博道牧師
 聖日礼拝 ルカ12:13〜21 

序 論:
豊かになる方法(手段)を間違えた?!私たちにとって本当に「豊かな人生とは何だろうか」を、聖書から共に学びたい。
E.フロムは「To Have, To Be」(持つこと、在ること)という本の中で、豊かさを手に入れる二つの対照的な手段について述べています。
@Having(Doing)―学歴や職歴などの社会的ステータス(状態)、お金やモノなど消費家財や不動産、さらに何かが出来るという行為などによって得られる豊かさを意味しています。
ABeing―人間存在そのものが高価で貴いとする考え方。あるがままを受容し、承認し、支持する世界で、ただ愛の世界で成り立つ真の豊かさです。

本 論:
聖書が教える「豊かな世界」
 ルカ12:13〜21に「愚かな金持ちの譬え」が書かれています。
豊作を経験した金持ちの男は思いめぐらした末「(私の)倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに(私の)穀物や(私の)財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ“さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ”」と、自分に言い聞かせたのです。

彼の犯した決定的な誤りを幾つか指摘し、反面教師としたいと思います。
@彼は自分が人生の主人公と思いこむ錯覚を起こしている。
A彼には喜びを分かち合い、人生を共に歩むパートナー(もう一人の他者)の存在がない。
B彼は人間のいのちには限界があることを忘れている。
聖書が教える豊かな世界は、何よりも神との関係の中で生み出されるもの。目に見えるモノではなく、むしろ目に見えない(それゆえ)永遠に結びついているもの。
それは、神の豊かな祝福であり、驚くべき溢れる恵み(Amazing Grace)であり、心の平安、喜び、感謝、希望、包み込まれる愛であります。

本当の豊かさを生み出すものは何か?
@生きる目的や目標のある人生
Aスムーズな人間関係―お互いを認め合い、分かち合い、理解し合い、赦し合い、支え合う豊かさ。
B自分の不都合(思い通りにならない現実)をありのまま受け入れる豊かさ。
C遠く離れた所にいる人(貧困や窮乏、戦火の国や被災地など)に思いを馳せる豊かさ。
D豊かな自然に目を向けたり、日常生活環境の中にあるもので満足する豊かさ。
E相手の欠点を裁かず、愛をもってそっと覆う豊かさ。
F家族が共に集まり、温かい団欒をする豊かさ。
G分かち合う相手を持つ事〜本当の隣人を発見する豊かさ。 (マザーテレサ)
H共に喜び、共に泣く〜共感出来る心の豊かさ。
I最善をなしてくださる神のみ手に委ねて信仰をもって生きる生き方。

まとめ:
トルストイの民話「人にはどれだけの土地がいるのか」をとおして、私たちが豊かな人生を手に入れるために何が必要なのかを学ぶことができます。大いに教訓としたいものです。

2011/10/16(日) 「静まりと交わり」小暮智久牧師(東住吉キリスト教会)
“実りの秋”特別礼拝 詩編46:1〜12

(序 論)
 日本フリ−メソジスト教団は一つの教会です。本日はその家族の教会で共に礼拝を守らせていただく事が出来きて感謝します。私は先日、蒜山高原で牧会者の学びに出席し、そこで静まりと交わりの時を持ちました。それで本日は「静まり」「交わり」について学んでみたいと思います。

(本 論)
 崩れ行く世界〜詩編46の1から8節で詠われている世界は崩れいく世界の情景です。そのような中で人々の心は揺らぎ、騒ぎます(7節)常に変化し崩れ安い世界において神のみが避けどころなのです。砦なのです(1節)
自分の人生が崩れていく事を感じる事があります。身体的な弱さ、精神的な事・家族の事で何故?と思う事が時として起こります。
 そんな時に悔しさ、怒りをそのまま神様に聴いてもらうという静まりと交わりが必要なのです。そしてその事をそのまま受け入れる謙虚さが必要なのです。

 9節にあるように崩れる事のない、変化する事のない神様が存在されている事を知りましょう。また11節にあるように神様は私たちを招いてくださいます。「静まって私が神である事を知れ」と主は言われています(口語訳・11節)
 「力を捨てる」とはどんな事なのでしょうか。それは何のためなのでしょうか。変わる事のない、「私は神である」と言われる神は私たちにどんな意味がある存在なのでしょうか。自分にあるという事を知り、世界を支配されているのは神のみであるという事を知る事は大切な事です。

 日々の生活の中で自分の力の限界を認めたくない事がありますが、人間にはやはり限界があります。
この事を知り深く味わわなければなりません。完全で全能なのは神のみなのです。神様は欠けの多い私たちを大切に思い私たちにキリストを送ってくださり、十字架に架けてくださり、復活させてくださいました。ですから私たちはキリストを神と告白する事によってのみ神様との永遠の交わりを保つ事が出来るのです。そして主を崇める事により同じ思いを持つ人たちと共にある交わりがある事を知るようになるのです。神は私たちの避けどころなのです。「たち」というところに信徒の交わりがあり教会の交わりがあるのです。

(結 論)
神の前に静まるとは神様が語られる時間と空間との間に備えられる「時空」を意味します。
共にいてくださる神様に栄光がありますようにお祈り致します。

2011/10/08(土) 「行って、実を結びなさい」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 ヨハネ15:11〜17

(序論)
 クリスチャンとは日々の生活の中でキリストの名を唱えている人の事を言います。日々聖書に基づいて歩んでいる人の事です。@キリスト者はエクレシアと言われるように「呼び集められた者」として、聖日礼拝に招集された者です。主が呼び集められた者であり、その集められた者が
Aディアスポラ〜散らされていく行く者です。集められた者が地域へ派遣される者と言うのがクリスチャンの第2の意味です。キリスト者は主の恵みによって力をいただいて地域へと派遣されていく者なのです。

(本論)
 今日のみ言葉の15節を見ると「わたしは、まことのぶどうの木であり、父は農夫」と言われた後に「つながって」と言う言葉が11回も使われています。「つながる」とは、結びつく、とどまる、居り続けると言う意味があります。では、「つながる」とは具体的にどう言うあり方を言うのでしょうか。それは「信じる」と言う事に尽きます。キリストによって生きる、全てをキリストに委ねると言う事なのです。
それは神を中心として生きると言う事です。それが豊かな実を結ぶ生き方なのです。そのような生き方をとおして、その人の生涯が祝福されるのです。次に15章16節にある「出かけて行く」と言う事が第2の事です。クリスチャンはとどまり続けるのではなくて、出かけて行かねばなりません。
出かけるとは、イエスの福音を携えて行く事、伝道を意味します。自分に与えられた喜びを伝える事なのです。

(結論)
 アブラハムは75才で神の声を聞いて出て行きました。その時に「わたしはあなたを祝福する」と言う声を聞きました。アブラハムは祝福するとの声を聞き、その声に従って出て行きました。そしてアブラハムは祭壇を築き、主の名を唱えました。礼拝したのです。アブラハムは主の声を聞き、出かけて行き、主を礼拝し、そしてまた出かけたのです。
 さあ、私たちも礼拝から地域へと出かけましょう。そして伝道しましょう。「出かけて行って」実を結びましょう。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.