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最新の絵日記ダイジェスト
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2011/11/27(日) 「生涯を主に献げて」大嶋博道牧師
 アドベント(1)収穫感謝礼拝 マルコ12:41〜44
はじめに:
 収穫感謝礼拝にあたり、「献げる」と言うことを通して私たちの信仰や奉仕のあるべき姿、さらに教会との関わり等を考えてみたい。
「献げる」ということに関して三つの前提
@私たちに与えられているすべてのモノは神の所有であること。(詩24・1)
A私たちは神の所有物を管理させていただいている。(Tペテロ4・10)
B私たちはそれらをとおして神の栄光を現すように努めること。(コリント第一10:31)

序 論:
(1)私たちが献げる「献金」とは何なのかを聖書から確認しておきましょう。
@献金は私自身の「献身そのもの」で、主であるお方に私自身を献げると言うこと。
A献金は主が私になして下さった「御計らい」(詩編103:2)に対する感謝のしるし
B献金は恵みに対する応答だから、決してお賽銭やお布施、寄付や篤志(親切な志や思いやり)や義捐金等ではない。

(2)では、献金するとどうなるのか。
@神の栄光が教会を通して顕れます。
A神に選ばれた伝道・牧会者(教職)を支えます。
B献金することによって信徒1人1人が教会の聖なる業に参加することが出来ます。

本 論:
 では、私たちはどのように献げるのか?
@心に決めた通りに献げること。 (コリント第二9:6〜7)
A何よりも「初穂」を献げること。(詩編103:1〜5)
B「10分の一」を献げるように努める。
(レビ記27:30、民数記118:26、申命記14:24、歴代誌下31:5参照)
 また、マラキ書によると、神様は「献げもの」をとおして「わたしを試してみよ」と言われます。神を試みることをしてはならないが、唯一「献金」に関しては許されているのである。
C主に信頼し、期待しながら献げる。

生活のすべてを献げた2人の女性の事例から
(1)レプトン二枚(ローマの最小貨幣)を賽銭箱にささげた1人の貧しいやもめ
彼女は乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部献げた。(マルコ12:41〜44)
(2)人生そのものであったナルドの香油の香油の入った石膏のつぼを壊して、イエスに香油を注ぎかけた1人の女性、彼女は当時結婚のために準備していた香油(300デナリに相当)を惜しみなくイエスに注いだ。彼女は彼女が出来る最善をなした。と同時にイエスにとっての最善でもあった。(マルコ14:3〜9)
(まとめ)
 献金はある意味では「私たちの信仰がどこにあるのか」を問いかけています。
「自らが心に決めた通り」に献げれば良いのです。10%でもそれ以上でも、あるいはそれに満たなくても主は私たちが信仰をもって心から献げる献金を喜んで下さいます。献金は何よりも「喜んで、愉しみながら献げる」ものなのです。神は必ずあなたとあなたの家庭、さらにあなたの教会を豊かに、さらに豊かに祝福してくださいます! (栄光在主)

2011/11/20(日) 「自由を得させるために」大嶋博道牧師
聖日礼拝 ガラテヤ5:1〜15
(序論)
 今日のメッセージの中心は13節の「…あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を肉に罪を犯させる機会とはせずに、愛によって互いに仕えなさい。」というみ言葉にあります。
 
さて、信仰生活は決して強制や束縛ではありません。至って自由なものなのです。それは神から与えられる恵みです。聖霊による恵みなのです。開放的なもの、喜びに満ちたものなのです。
見えない明日(将来)を見ることが出来るのが信仰なのです。
そしてそこには、神の恵みに対する「応答」、「愛の業」があり、「献身の業」があるのです。決してその逆ではないのです。(律法主義=業や善行によって与えられる義)形式的、義務的に礼拝を守ったり無理矢理に奉仕をするのではなく、神の豊かな恵みに対する応答として、喜びと感謝に満ち溢れ(強制的にではなく自主的に)行われなければならないのです。(行わざるを得ないのです。)

 また、辞書によると自由とは「自分の思い通りになること、外から強制されずに自分の本性に従って行動することが出来る」と説明されています。しかし「自由」は原則的に禁止されているものがあっての自由です。(創世記2:16〜17)即ち、自由には秩序・制限があり、従って服従を伴うものです。
 私たちの自由はキリストを信じる「信仰」によって得られるもので、それは律法を行うこと(業)によるとか、自分の努力(能力)によって得られるものではないのです。信仰によって得られる自由には平安があり、喜びがあり、希望があります。私たちは本当に自由とされた信仰生活を送っているでしょうか?

(本論)
 私たちキリスト者の自由には2つあります。
その@は「○○からの自由」です。○○してはならないという事からの自由、すなわち「律法主義からの自由」です。またタブー、迷信、慣習、言い伝えや善行や修業などからの自由でもあります。(日常生活がこれらのものに左右され易いですね。)

そのAは「○○への自由」です。私たちは罪から解き放たれて自由となったのですから、信仰に基づいて「愛の業」に励みたいものです。愛を実践する時に伴う犠牲や恐れから解放されたいものです。
スミルナの監督のポリュカルポスの殉教の記録は、まさに「信仰の自由」を証ししています。主を信じる
信仰ゆえに迫害に遭っても死さえ恐れないほどの自由なのです。サタ−ンと勇敢に戦う自由があるのです。

(まとめ)
 キリスト者であるという事は自由であるということです。しかし、この自由は神の姿に似せて造られた
本来の姿に帰することを言います。「誰にも拘束されず」に、また「誰にでも服従する」ことが出来るのが自由な身となったキリスト者の姿なのです。

2011/11/13(日) 「さあ、幼子を神の下に」大嶋博道
大人・子ども合同礼拝 ルカ18:15〜17
序 論
 今日は7歳以下の子どもの祝福を祈りつつ、「大人子ども合同礼拝」を守ります。
先ず前提となる事について、今日のテキストから次の5つの事を確認しておきます。
@イエスの公生涯の活動の殆どは大人を対象としておられました。
Aイエスに触れて頂くために人々は乳飲み子を連れてきました。
B弟子たちはこれを見て叱り(とがめ)ました。
Cしかしイエスは「子ども」たちをわたしのところに来させなさい」と言われました。
Dそしてイエスは「神の国はこのような者たちのものである。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とはっきりと言われました。

 イエスの時代も現代も大人社会は常に「誰が1番なのか」「誰が偉いのか」に関心があり、比較・競争を好みます。そのように1番になりたいと思う傲慢な大人に対して、イエスは乳飲み子、幼子(おそらく0歳〜4歳頃まで)を近くに呼び寄せて、指さして「神の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。大人の男子しか数に数えられなかった時代にあってこの事は大変意義深いことでした。

 本 論:
イエスが「神の国」に例えられた「乳飲み子や幼子」の特徴を考えて見ましょう。
彼らには@無条件で信頼する心Aきわめて素直な心B委ねきった心C何も疑わないで依存する心があります。
バルバロという聖書学者は「幼子や乳飲み子は悪を知らず、富を望まず、傲慢な心も憎悪の心も持たず、人から言われることをすべて正しいこととして素直に受け入れる」と述べています。
 私たちも神を信じ、委ねて、依存すれば神の国に入る事が出来ることを心に留めたいものです。
 
大切なことを一つだけお伝えします。それは「視点を変える」生き方をすることです。
あなたは今、どのような視点で生きていますか。高い視点で生きてはいませんか。
謙遜の視点を持って欲しいと思います。目線を下げて、目線を低くしてそして幼子のように謙って歩んで頂きたいと思います。

 幼子は二つの点で大人にまさっています。一つは謙虚さ、無力さです。もう一つは自分を愛し、面倒を見てくれる親への信頼度です。この二つは幼子だからこそ持ち合わせている「特権」です。
 私たちも乳飲み子や幼子のように、一途に信頼をもって主に従いたいと思います。
そこにこそ「神の国」が存在するのです。

2011/11/06(日) 「命の名が記されている」大嶋博道牧師
召天者追悼記念礼拝 フィリピ3:17〜21

序 論: 
 キリスト教的人生観とは次の3つに要約出来ます。即ち、
@人生は1回限りであると言う事(肉体の命は一つ)
A人生には終わりがあると言う事(死でもってしか人生の幕は閉じられない)
Bしかし、死は終わりではない事(天国への望みがある事。私たちの本当の住まいは天国にある)です。(フィリピ3:20)
聖書は「天国」の存在を幾つかの箇所ではっきりと述べています。
(1)黙示録21:1〜4 
(2)イエスのことばから―イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と約束されました 
(3)「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・・(ヨハネの福音書14:1〜3)。
(4)「けれども、私たちの国籍は天にあります。(フィリピ3:21)。
 神学者であり、牧師の近藤勝彦先生は「このパウロの言葉はクリスチャンの信仰の本質であり、隠された性格を的確に言い表している」と述べています。
(5)命の書(Book of Life)に名が記されている「命の書」とは、ヨハネの黙示録によれば、最後の審判において開かれる書物です。
キリストに結ばれて神の平安と安らぎを与えられ、永遠の命を与えられた者の名前が一つ一つ記されている書物ということですが、キリストを信じて生きた者は、「過去帳」や「死者の書」にではなく、「命の書」に記される、というのです。(出エジプト4:3、イザヤ4:3、エゼキエル13:9、ダニエル12:1、詩篇69:29と139:16、ルカ10:20、フィリピ4:3、ヨハネによる黙示録3:5と20:15と21:27等)
本 論:
天国を確信しながら、私たちは日々、どのような歩みをしたらいいのか?
@仕事に精一杯時間を費やして欲しい (使命=いのちを活用すること)
A家族をこよなく愛して、大切に守って欲しい (隣人への愛)
B信仰生活を全力を注いで守って欲しいと思います。

まとめ:
 今朝、私は故人の写真を前にして、重ねて強調したい。目に見える世界がすべてではない。物質を中心としたこの世界がすべてではないのです。
ペテロは「あなたがたは、この世の旅人であり寄留者である」(Tペテロ2:11)と言いました。この世は仮の宿であり、一時的(一瞬)です。いつまでもしがみつく場所ではないのです。私たちには世界の次元を越えたもう一つの、そして永遠の住まいである世界が与えられているのです。
 神様だけが持っておられる「命の書」にあなたの名は記されています。 「あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)
 イエス・キリストを信じて信仰に生きる者すべてに与えられた約束です。天国への望みをもって、喜びと感謝をもってこの地上の歩みを続けたいものです。


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