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2011/11/20(日)
「自由を得させるために」大嶋博道牧師
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聖日礼拝 ガラテヤ5:1〜15 (序論) 今日のメッセージの中心は13節の「…あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を肉に罪を犯させる機会とはせずに、愛によって互いに仕えなさい。」というみ言葉にあります。 さて、信仰生活は決して強制や束縛ではありません。至って自由なものなのです。それは神から与えられる恵みです。聖霊による恵みなのです。開放的なもの、喜びに満ちたものなのです。 見えない明日(将来)を見ることが出来るのが信仰なのです。 そしてそこには、神の恵みに対する「応答」、「愛の業」があり、「献身の業」があるのです。決してその逆ではないのです。(律法主義=業や善行によって与えられる義)形式的、義務的に礼拝を守ったり無理矢理に奉仕をするのではなく、神の豊かな恵みに対する応答として、喜びと感謝に満ち溢れ(強制的にではなく自主的に)行われなければならないのです。(行わざるを得ないのです。)
また、辞書によると自由とは「自分の思い通りになること、外から強制されずに自分の本性に従って行動することが出来る」と説明されています。しかし「自由」は原則的に禁止されているものがあっての自由です。(創世記2:16〜17)即ち、自由には秩序・制限があり、従って服従を伴うものです。 私たちの自由はキリストを信じる「信仰」によって得られるもので、それは律法を行うこと(業)によるとか、自分の努力(能力)によって得られるものではないのです。信仰によって得られる自由には平安があり、喜びがあり、希望があります。私たちは本当に自由とされた信仰生活を送っているでしょうか?
(本論) 私たちキリスト者の自由には2つあります。 その@は「○○からの自由」です。○○してはならないという事からの自由、すなわち「律法主義からの自由」です。またタブー、迷信、慣習、言い伝えや善行や修業などからの自由でもあります。(日常生活がこれらのものに左右され易いですね。)
そのAは「○○への自由」です。私たちは罪から解き放たれて自由となったのですから、信仰に基づいて「愛の業」に励みたいものです。愛を実践する時に伴う犠牲や恐れから解放されたいものです。 スミルナの監督のポリュカルポスの殉教の記録は、まさに「信仰の自由」を証ししています。主を信じる 信仰ゆえに迫害に遭っても死さえ恐れないほどの自由なのです。サタ−ンと勇敢に戦う自由があるのです。
(まとめ) キリスト者であるという事は自由であるということです。しかし、この自由は神の姿に似せて造られた 本来の姿に帰することを言います。「誰にも拘束されず」に、また「誰にでも服従する」ことが出来るのが自由な身となったキリスト者の姿なのです。
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