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2011/12/25(日) 「飼い葉桶のしるしが明日への光」大嶋博道牧師
クリスマス礼拝 ルカ2:8〜12 
(序論)
 クリスマスおめでとうございます。また、クリスマスの喜びと共に本日は洗礼を受けられる9名の方と転入会される1名の方が有りますがこの事も大きな喜びです。
 さて、本日の中心的な聖書の箇所は11〜12節です。キリストは聖書に書かれている通りきらびやかな宮殿ではなくてベツレヘムの隠れた小屋でお生まれになりました。
2章の7節、12節16節に「飼い葉桶」と言葉が出てきます。短い文書に3回も同じ言葉が出てくると言う事は記者が読者に注目して欲しいと思っている言葉なのです。幼子イエスは臭いのする、汚れた家畜小屋の飼い葉桶の中で産声を上げられました。聖書の記者はここに人間が生きる根拠があると、私たちに語りかけているのです。「飼い葉桶」にこそ希望があり、罪の赦しがあり、永遠の命があります。飼い葉桶の中にこそ私たちの真の幸せがあると聖書は言っているのです。

(本論)
12節に「これがあなたがたへのしるしである。」とあります。その「しるし」とは飼い葉桶の中で寝ておられるキリストなのです。飼い葉桶のなかにおられる幼子=キリストがしるしだ、このお方があなたがたを罪の滅びの中から永遠の救いに導かれるお方、あなたの幸せを支えられるお方、これがその「しるし」であると言っています。では「しるし」とは何なんでしょうか。

@最も弱く、小さく、罪深い者に神の救いが届くという「しるし」です。人間は弱さを抱えている存在です。罪深い存在ですが、神様はキリストを通して私たちに希望を与えてくださいます。徹底的に罪人である人間の側に寄り添ってくださるお方なのです。

A飼い葉桶の中にあるこの「しるし」にこそ本当の喜びがあります。汲んでも汲んでも湧き出る。注がれる大きな喜びが飼い葉桶の中の幼子キリスト・イエスにあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ第一5:16〜18)

(まとめ)
 キリストがあなた方の心の中にお生まれなさるようにお祈りします。そして、あなたご自身が家畜小屋の飼い葉桶となられますようにお祈りします。
「キリストがベツレヘムに千度生まれたもうとも、キリストがあなたの心のうちに生まれたまわなければ、あなたの魂はなお捨てられたり。」(A.シレジウス)

2011/12/18(日) 「その名に表されたまことの光」大嶋博道牧師
アドベント(W)礼拝 マタイ1:18〜25

(序論)
 イエス・キリストにおいて神が人間社会にインマヌエルされた日がクリスマスです。インマヌエルとは「インマー(共に)」「ヌー(我ら)」「エル(神)」の合成語で、その意味は「神は我らと共におられる」です。これは聖書全体を通して流れている大切な思想です。(参考聖句・イザヤ7章14節/8章10節/9章5〜6節)

(本論)
 この事から今日は次の2つの事を学びます。
(1)インマヌエルの神はどこにおられるのか、と言う事がその第1の事です。
@インマヌエルの神は私たちが新しい事を始めるところにおられます。(イザヤ48章16節)
Aインマヌエルの神は私たちの試練の真っ直中におられます。神は私たちが苦しんでいるその中に共にいてくださいます。(イザヤ43章2節)苦しみの祈りの中にあって神のみ声を聴くことが出来るのです。
Bインマヌエルの神は、旅の途上において共におられます。
ヤコブは荒れ野で、夜野宿している時に夢の中で神が共におられ、元のところへ連れ帰るという約束を聴きました。
Cインマヌエルの神は死の間際まで共にいてくださいます。(マタイ28章20節)ですから私たちは生と死を支配される神に全てをお委ねする事が出来るのです。

(2)インマヌエルは私たちに何をもたらすのでしょうか。 
それは「神がおられる」と言う
@「臨在信仰」を生み出します。神がおられる事を感じ取る事により
A心の平安が保たれます。そして危機の中にあって安心、平安をもたらします。
B忍耐と待ち望む信仰をもたらします。
B人生の圧倒的な勝利をもたらします。

(まとめ)
 主が共におられると言う事は物事が何でも良いように運ぶ事を意味しません。時として苦しみが私たちを覆う事があります。しかし、主が共におられると言う信仰はどんな状況にあっても私たちを生かし、勇気を与えて、その苦しみや試練を乗り越えていく力を与えてくれます。
クリスマスに際し、改めて「インマヌエル」の大切さを覚えましょう。祝福をお祈り致します。
                                         栄光在主

2011/12/11(日) 「系図の中にあるしるし」大嶋博道牧師
アドベント(V)礼拝 マタイ1:1〜18
(序論)
 私たちは「人生」から「あなたは何者か?」と問われています。今はアドベント(待降節)ですが、では「クリスマスが私たちに問いかけているもの」は何でしょうか?そして、キリストの「系図」が私たちに問いかけているものは何なのでしょうか。
 
系図はその人の身分(血筋)を明らかにし、由緒ある家系であることを証明するものです。
ユダヤ人は系図を殊の外、大切にし、こだわりを持っていました。系図が無いとか不確かで欠けがあったために祭司になれなかった記録もあります。マタイは福音書を「系図」から書き始めるこによって、主イエス・キリストは間違いもなく、アブラハムの子孫で、ダビデ王の血を引く真のメシアであることを明らかにしようとしたのです。

 実はこの系図の中にクリスマスの真の光があります。
それは、ユダヤ人の系図は「男系」であるにもかかわらず、当時は数えられる事が少なかった女性が、しかも異邦人とか好ましくない行いをしたいわくつき”の女性が4名も出てきます。
「タマル」「ラハブ」「ルツ」「ウリヤの妻」(バテシバ)です。

(本論)
 今朝はここから次の2つの事を学びます。
@その第1の事は「神のご計画は必ず成る」ということです。「時」には日常の時(クロノ−ス)と日常とは異なる決定的な時、神が介入される時(カイロス)があります。人間は様々な事を計画しますがそれが完全に全うされる事はありません。しかし、神は聖なるご計画を様々なことを経て成し遂げられるのす。(個人の救い、会堂建築など)

A第2の事は、神は聖なるご計画を成し遂げるためにどんな人をも選び、用いられると言うことです。
 この系図には前述のようにいわくつきの4人の女性が含まれています。ですからこの系図は決して完全ではなく汚れたものとなっています。この事を通して人間の歴史は罪の歴史である事を言
いたかったのではないでしょうか。そして、神様は救い主の誕生のために「系図の破れ目」に生きているような罪深い女性たちをも用いられたのです。

(まとめ)
 マタイ1章16節に「…このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」とあります。
そしてこのあとに続く系図はもうありません。このあとには私たちが記入されるのです。
そして信仰によって・・・私が生まれた」と。

2011/12/04(日) 「神の冒険が光となって」(牧師)大嶋博道
アドベント礼拝(V)ヨハネ第一4:7〜12

(はじめに)
今日のみ言葉の中心は14章10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」です。
私たちは今、アドベントを迎えています。アドベントには「何かが起こる」「突如として何かがやって来る」と言う意味があります。「来る」と言う意味があります。そこから「アドベンチャ−」(冒険)と言う言葉が出てきました。
「冒険」とは、何が起こるかわからないリスク(危険・損失・犠牲)を承知で、にもかかわらず、前に進む(実行する)ことです。
 クリスマスとは神が冒険をされた「日」です。神は犠牲を覚悟で、独り子イエス・キリストをこの世(人間世界)に遣わされた「日」なのです。それは神が私たちに「救い」という最高のプレゼントをしてくださった「日」でもあります。

(本論)
 では、神は具体的にどのようにして「冒険」されたのでしょうか?
@わずか15才ほどの少女に過ぎない、しかもまだ婚約中のマリアが聖霊によって身ごもり、救い主の母となることを引き受けたことが第一の冒険です。
A第2の事はマリアの婚約者ヨセフがこの事を受け入れたと言う事です。マリヤが救い主キリストを胎内に宿したと言う事をヨセフが全面的に受け入れたのは「神は我らと共にいる(インマヌエル)」と言う信仰でした。
Bヨハネ3章16節にある「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とのみ言葉の中に、神の冒険が決定的に表されています。神は私たちを愛するあまり、独り子を罪深いこの世にお与えになった、ここに神の冒険があるのです。これが第三のことです。

(まとめ)
 日本や世界には「大震災」「戦争」「餓死」など悲しい、惨たらしい事が沢山あり、この世界はまさに傷ついています。そして人間は神に背き、わがままで、自己中心的でしばしば罪を犯します。
神はそんな人間に目を注ぎ、一方的に愛されました。愛されるに価しないこの人間世界を愛して下さったのです。
 この神の冒険に私たちはどう向き合ったら良いのでしょうか。
それは創世記12章1〜4節にあるように「わたしが示す地に行きなさい」と神様がアブラハムにお命じになった時にアブラハムが信仰をもってハランを出発したように、私たちも「信仰の冒険」をする事です。信仰には様々な冒険が伴います。信仰をもってそれを引き受け、勇気をもって前進することです。必ず神様は祝福してくださいます。あなたを祝福の基として下さるのです。


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