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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2011/02/27(日) 「忍耐は道を開く」畑中康雄勧士
信徒礼拝 (聖書)ローマ5:1〜5

(忍耐とは)
 「国語の意味の忍耐」とは「苦しさ、辛さ、悲しさなどを耐え忍ぶ」と言う意味があります。言い換えれば「我慢する」とか「辛抱する」とかの意味です。新約聖書では「忍耐」は最も高尚な言葉の1つで「その人の意思に反して起こった労苦に耐えること、苦痛の刺を忍ぶ事」を言い「人々が神のために死ぬことが出来るほどの精神的な耐久力」を意味します。

そして聖書が教える「忍耐」は「座って頭を垂れて、事がふりかかるままにし、嵐が過ぎ去るまで受動的に耐え忍ぶ」と言う忍耐ではなくて「ただ、あきらめるのではなくて、燃えるような希望を持って物事に耐える心、1ケ所にじっと座って耐える心ではなくて、その事が永遠の栄光に導く事を知って耐える心」で「夜明けを待つ輝く希望の忍耐」を言います。

(キリスト者の生き方)
 今日の聖書のみ言葉のテ−マは「キリスト者の生き方」です。「義とされた私たちは如何に生きるか」と言う事が問われています。現代の社会においては楽しい事も多いがまた、苦しい事も沢山あるのが現実です。誰でも嫌な事、苦しい事は避けたいと思いますがキリスト者の生き方はその苦難の中にこそ、神の栄光が顕れる、神の愛が私たちに注がれ、それに与るクリスチャンは喜びを得て、希望を得る事が出来る、即ち神の愛によって私たちの内に良き業が始められ、神がこれを完成してくださる事→私のような人間が神の栄光に与る事が出来るという希望を最後まで持つ事が出来ると言う喜びの生き方をする事がキリスト者の生き方です。艱難に遭った時にこそ神様が私たちにそれに耐える力を与えてくださり、さらに私たちに神の平和・神の愛が働き私たちに希望に満ちた生きる道を開いてくださると言う今日のみ言葉を信じて喜びをもって、燃えるような希望を持って耐えて、み言葉に生かされて生きたいと願います。

(苦しみから希望へ)
 今、肉体的な試練、精神的な苦しみ、そして人生のさまざまな苦難と戦っておられる方、神様は忍耐の中に希望と輝く夜明けを準備していてくださる事、即ち「忍耐は道を開く」との神の約束を信じて、み言葉に生かされて生きていただきたいと祈ります。今、あなたに与えられている試練が癒され、道が開かれますようにお祈りします。

2011/02/20(日) 「健全な教会・祝福された家庭」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)エフェソ2:14〜21

〔定期教会総会開催の聖日にあたり〕
(1)まず、基本的なことですが、「教会」とは何か?
 教会のことをギリシャ語で「エクレシア」、ヘブル語で「カハール」と言いますが、この言葉は私たち人間の集まり、「共同体」を指しています。教会とは何かと言えば、「神によって召し集められた群れ(共同体)」であります。パウロは私たちが「神の神殿」であると述べています。(コリント第一3:16〜17参照)

(2)では、この「教会の土台とは何か?」について触れておきます。
 教会の土台はイエス・キリストです。 エフェソ2:20に「使徒と預言者という土台の上に建てられています」とありますが、これはイエスの弟子たちや後の使徒たち、預言者たち(伝道者)の信仰と教えによって形成されたことを意味しています。すべての出発、基、基礎、礎石となるのはやはりイエス・キリストであります。 

(3)このような土台によって立てられた健全な教会とはどのような姿をしているか?
 @毎週聖日に行われる礼拝がイキイキしている。
 牧師が正しくみことばを語り、信徒がそのみことばを謙虚に聴き、受け入れている。感謝と喜びにあふれた生きた霊的な礼拝こそ、私たちが目指す健全な教会。
 A信徒一人一人が霊に燃えて喜びの奉仕に励んでいる。
 礼拝の司会や奏楽、受付や献金係、会堂掃除や事務、教会学校の教師も各部の働きも奉仕です。何よりも「祈り」は最大の奉仕です。心から喜びと感謝と従順な心で奉仕に励むことこそ、目指す健全な教会。
 B聖書の学びなどをとおして、信徒一人一人が霊的に成長している。
「霊的成長」は、私たちの教会のこれからの課題です。弟子養育誓書研究、信仰育成の学び、聖書研究祈祷会、牧会カウンセリングの学び、また個人的なデボーションをとおしてみことばに接し、祈りを継続する。ここに「信徒の霊的成長の秘訣」があります。
 C愛の交わり(コイノーニア)が見える形で成長している。
 使徒言行録に記された「最初の教会」は、家ごとに集まってパンを裂き、喜びとまごころをもって一緒に食事をしていました。「信徒たちは皆一つになって、すべてのものを共有していた」と
あります。(使徒2:44〜46)
 D外に向かって積極的に証しや伝道を実践している。
「伝道」アンケートに51名の方々が記入して下さった。皆さん、自分の家族や親しい知人、近隣に向かってなんとか伝道したいと願っていることを深く感じた。
 羊飼いは羊を産むことはできませんが、羊は羊を産むことができましす。言い換えれば、ここにおられる信徒一人一人が伝道へと導かれて頂きたいのです。

(4)では、健全な教会と共に祝福された家庭について触れておきます。
「あなたがたも共に」とパウロが強調しているように、教会だけが健全に建てられ、成長するのでなく、同時的に皆さんを送り出している「ご家庭」も豊かに建て上げられないといけません。
具体的には、(1)礼拝の恵みがそのまま家庭につながること。(2)皆さんの存在が家族の中に愛を産み出し、幸いを産み出し、平和をもたらすこと (3)家庭も一つの方向に向かって建て上げられていくこと。

まとめ:
健全な教会を建て上げましょう。信仰と希望と愛に成長しましょう。
皆さんが健全な教会に連なることによって、皆さんの家庭にも祝福が豊かにもたらされますように心からお祈り致します。

2011/02/13(日) 「希望―深い淵の底から」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)詩編130:1〜8

(初めに)
 今日のテキスト詩編130編は、6・32・38・51・102・143編」と共に「7つの悔い改めの詩編」の一つと言われています。
1節の「深い淵の底」とはいわゆる「どん底・八方ふさがり・四面楚歌…」のような状態を指すと考えられます。あるいは詩人の罪が解決されていない心の不安や恐れの気持ちを指すとも思われます。詩人はまさに人生の深淵を味わっています。希望が失せ、虚しさだけが彼の心を支配していたのかも知れません。
 
 しかし、この詩人は、深淵の中から「わたしは主に望みを置き、御言葉を待ち望みます」と、主に呼ばわり、祈っています。
(本論)
この詩編から二つのことを学びたいと思います。
(1)キリスト者―主に呼ばわれる者
 私たちキリスト者は「主に呼ばわれる存在」です。新生児が母を求めて泣き叫ぶ姿と似ています。母は赤ん坊の求めを聞き逃さず、その求めを心に留めます。そのように神は私たちの叫びを待っておられ、そしてその求めに応じてくださいます。私たちキリスト者は祈り求める存在であり、主から愛され、赦され、生かされている存在なのです。深い淵から神を呼び求める時に人はその淵から抜け出す事が出来ます

(2)キリスト者―主によって望みを抱く者
 5〜8節にあるように主によって望みを抱く者がクリスチャンです。夜通しエルサレムを守る「見張り」が朝が来るのを待ち望むにも増して主に望みを託して待ち望む存在です。
「主に望みをおく」とは
@主に期待するA主に信頼をおくB主がなさる最善に期待するC主を楽しむD主のみ心に自らを合わせる、事を言います。

(結論)
 では、主を待ち望むとどうなるのか?その答えは、
@Tコリント10章13節の「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」のみ言葉と、
Aフィリピ4章6〜7節の「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
にあります。
 ジョージ・フレデリック・ワッツは、目が見えない一人の少女が地球の上に座って、一本の弦しかない竪琴を弾いている絵を描きました。「希望」と題する絵です。
私たちが一本の弦にすがるように神に泣き叫び、祈り求める時に、神は答えて下さり、最善をなして下さるのです。そこに真の希望が存在しているのです。神に呼ばわりましょう。
神に望みを置きましょう。祝福をお祈り致します。

2011/02/06(日) 「その愛に招かれて」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 (聖書)申命記7:6〜11

(序論)
 キリスト教は招き(選び)の宗教
です。神はイスラエルの民を特別な「宝の民」とされました。神は「ノア」や「アブラハム」や「モ−セ」を選び(招き)、その時代の中で神の使命を担う者とされました。そして、今も主は「疲れた者、重荷を負う者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」
と私たちを優しく招いてくださっています。

(神の招きの基準)
 私たちが人を選任する時は、極めて優れている者、その任に耐え得る者、即ち一定の基準に達している相応しい人を選びます。選ばれた人は、自信と誇りをもってその任に着きます。
 しかし、神の選びは異なります。今日のみ言葉の7〜8節には「主があなたたちを選ばれたのは…あなたたちはどの民よりも貧弱であった」からとあります。そして「あなたに対する主の愛のゆえに」とあります。選びの基準は「最も貧弱であった」事であり、「あなたに対する主の愛ゆえに
…神の約束のゆえに」選ばれたとあります。

(主の愛のゆえに)
 私たちが選ばれるのは「主の愛のゆえに」と言うのがキ−ワ−ドです。神はこの世的な計算をしないで私たちを選んで下さいました。神は私たちを選ぶ事で損をなさる事を承知の上で選ばれるのです。神が計算される方だったら私たちは選ばれなかったで
しょう。神はそんな私たちを選び、私たちのする事に耐えてくださり、導いてくださいます。神は最も弱く、みすぼらしく、罪深い私を選び、私のする事に耐えてくださいます。それが「主の愛のゆえ」です。

(何のために選ばれるのか)
 では私たちは何のために選ばれるのか。
それは
@Tコリント1章26〜31節にあるように「神によってキリストに結ばれるため」即ち「宝の民」となるためです。「すべての民からあなたを選んで、御自分の宝の民」(申14章2節)とするためです。神の内に所有される民となるためです。

A第2の事は「主のみ業を宣べ伝える」ためです。Tペテロ2章9節に「選ばれた民…神のものとなった民…光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」とある通りです。このようにして神は私たちをこの世に派遣し、証し人としてまた福音宣教活動に用いられるのです。

(まとめ)
 H.クレーマーは「教会の信徒とは、証しと奉仕のために世界に派遣された者」と言いました。全ての信徒は神に選ばれ、神の栄光のために証しと奉仕に招かれているのです。
 ルカ14章15節からの「大宴会」の譬えにあるように、招かれている人が自分の都合でその宴会に行かないと言う事がないように神の招きに真実をもって応じ、神の祝福に与りたいものです。


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