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最新の絵日記ダイジェスト
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2011/03/27(日) 「恵み深い主に感謝を」大嶋博道牧師
年度末感謝礼拝 (聖書)詩編135:1〜5

(年度末にあたって)
 今日は年度末礼拝を守ります。礼拝のテ−マは「恵み深い主に感謝を」です。今年度を振り返り感謝をしたいと思います。
 詩編135〜136編は「感謝への招き」の詩編と言われています。私たちはこの1年間にどれほど感謝すべきできごとがあったでしょうか。足らなかった事を数えるよりは詩編のみ言葉に導かれて今ある恵みを数えて感謝しましょう。
  (新聖歌172番♪「望みも消え行くまでに」を賛美)

(パウロに見る感謝)
 パウロは健康において、また性格において「弱さ」を持っていました。そしてキリスト者となったがゆえに迫害にも遭い、数々の困難を味わいました。そんなパウロも沢山の感謝のみ言葉を残しています。例えば「Tテサロニケ5章16〜17節」「フィリピ1章3〜5節」「コロサイ2:6〜7」「エフェソ5:19〜20」等には感謝、感謝のみ言葉があります。全てが満たされていない時にも神を信じる者にとってはキリストが必ず最善をなしてくださると信じる事ができ、心の平安が保たれるがゆえに日々感謝なのです。

(感謝し主を賛美する生活)
 感謝は個人的な経験に基づく事が多いです。詩編103編には感謝すべき事が多く語られています。例えば「神が備えてくださる事」「罪をことごとく赦してくださる事」「死の危険から守ってくださる事」「神の憐れみがある事」「良いもの(神の恵みや祝福や幸いなど)に満ち足らせてくださる事」等々です。この感謝は個人的な感謝です。
 次に公的な感謝があります。例えば「教会の会員とされた事」「礼拝に出席出来る事」「愛にある交わり、奉仕が出来る事」等々は私たちが公けに感謝すべき事です。
 「現実の認識においては悲観的であっても、希望においては楽観的です」とシュバイツァは言っています。だから諦めてはならないのです。道は必ず開かれるのです。悲観的な状態の中においても信仰によって必ず希望が生まれます。イエス・キリストにおいて希望があります。

(キリストの栄光を現す舞台として)
 また、エリコットは「私たちの身体はキリストの栄光が現れる劇場なのである」と述べています。
私たちの日々の生活の舞台にキリストは立っておられ、私たちの言葉や態度や愛のわざをとおしてキリストは輝かしい栄光を顕してくださるのです。ですから「ハレルヤ。主のみ名。私たちをご自分の宝としてくださった主。主はどの神にもまさって大いなる方」(135編)と主を賛美したいのです。 皆様の祝福をお祈り致します。            

2011/03/20(日) 「その嵐の中の同伴者」 大嶋博道牧師
聖日礼拝(聖書)マルコ4:35〜41

東日本の大地震による被災者の癒やしと復興を祈りつつ・・・。
(はじめに)
 今日のメッセ−ジの結論は「人生の嵐の中に主は共におられる」と言う事にあります。今日のみ言葉は2000年の間、多くの人々に希望を与えて来ました。今日の物語の内容は、
@向こう岸に渡ろう、とイエスは言われた。
Aイエスご自身がその舟に同船された。
B途中に突風が吹いて舟が水満たしになりかけた。
Cイエスは船尾で眠っておられた。
D弟子たちは波風を見て恐れた。
Eイエスはこれを見て起き上がり「黙れ、静まれ」と風を叱られると風はやみ、凪になった。
F弟子達たちはこの事を見てイエスを信じた、というものです。

(何を教える物語か)
 この物語が私たちに教えているものは何なのか?それは
@私たちのこの社会は突風を伴う湖のようなものである事A私たちはそこに向かう小舟のようなものである、神様が眠っておられる状況の中で苦難が突然訪れる事があると言う事です。その時に私たちはどのように生きていけば良いのでしょうか。

(本論〜ここから次の事を学びます)
 今日のみ言葉から次の3つの事を学びます。
@私たちの人生には突風が起こる事がある
と言う事がその第1の事です。私たちが生活しているこの場所は動くものであると言う事です。それは詩編93の3〜4節にある通りです。「あなたがたはこの世では悩みがある」とみ言葉は言っています。私たち
はこの事を覚えておく必要があります。

Aキリストは常に私たちと共におられるお方である
と言う事が第2の事です。イエスは向こう岸に渡ろうと言われ、この舟に乗られました。突風の中にある小舟の操縦者は主イエス・キリストに他なりません。私たちは狼狽え、恐れの中にある時にも主イエスは確かにおられる、共に臨在していてくださると言うことです。私たちの命の拠り所はそのキリストにあります。突然の出来事の中にあっても私たちクリスチャンはその状況の中でどう生きるか
と言う事が求められています。それは私たちクリスチャンの信仰が揺さぶられる時でもあります。

B苦しみの中で、共に生きる〜苦難を共有する
と言う事が学ぶべき第3のことです。「共に生きる群れ」が今年の教会標語です。このことをもう一度味わい直したいと思います。人種や言語やイデオロギーを超えて共に生きる群れとならなければなりません。あの「良きサマリヤ人」の譬えにあるサマリヤ人になりたいと思います。「憐れに思い」「その人に近づき」「傷の手当てをし」「宿屋につれて行き」傷ついた人の隣人となったサマリヤ人は共にある群れとなりました。主イエス・キリストは言われます。「あなたも行って同じようにしなさい」と。
さあ、私たちもこの危機の時に行って同じようにしましょう。

2011/03/13(日) 「アコルの谷が望みの門」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ホセア書2:16〜19

(アコルの谷とは)
 今日のみ言葉の中心は17節の「そのところで、わたしはぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える」にあります。同じ意味のみことばに「荒れ野に水が湧く」(イザヤ35:6)とか、「悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16:20)があります。

「アコル(苦悩)」は「アーカル(災いをもたらす)」から来ており、ヨシア記7章に由来しています。それによると、イスラエルの民はエリコを攻略し、その勢いでアイを攻めます。しかし、楽勝と思っていたアイとの戦いに大敗北しました。その理由をヨシアが神に尋ねたところ、神は「イスラエルは罪を犯し・・・ごまかして自分のものとした」(11節)と答えられます。戦利品を着服し、罪を犯したのはアカンでした。アカンは一族と共に石うちの刑に処せられてアコルの谷に埋められます。その場所が「アコルの谷」と呼ばれます。

(ホセアの妻の罪の赦し)
 ホセアには妻がおり、度々ホセアを裏切りますが、神は背信の罪を犯した妻ゴメルを赦しなさいと言われます。悩んだ末にホセアは妻を赦します。神は何度も罪を犯したイスラエルをお赦しになりました。彼は自らの生活をとおして、神の赦しや愛に気づいたのです。11章には「神の愛」の姿が記録されています。

(呪われた場所が希望の門に)
 神は@イスラエルの民を荒野に導いてその心に語りかけAぶどう園を与え(回復と祝福)Bアコルの谷を希望の門としてくださるのです。イザヤ65章10節には「シャロンの野の羊の群がるところアコルの谷は牛の伏すところとなり、わたしを尋ね求めるわが民のものとなる。」とあります。災いの場所が祝福の場所となるのです。

 このようにして神は「アコル(苦悩)の谷を希望の門」(2章17節)としてくださるのです。私たちも日常生活の中で「アコル(苦悩)」を経験します。日常生活で苦悩の戦いを避ける事は出来ないのですが、そのような中にあって、神は共におられ、常に目を向けていて下さるのです。だからアコルが希望の出口になるのです。

(大震災を覚えて)
 今回、東北地方・太平洋沖に大地震が起こり、一瞬のうちに大きな津波が町や村を飲み尽くしました。私たちの教団にも東部に7つの教会があります。大きな試練と苦しみの中に置かれています。
私たちは今、被災された方々のために、神が「アコルの谷を希望の門」としてくださるように切にお祈りしましょう。  

2011/03/06(日) 「ベテル〜そこに神が共におられる」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 (聖書)創世記28:10〜22、35:1〜7
(プロロ−グ)
 ベテルとは「神の家」「神の住まい」を意味します。
旧約聖書の時代においては「ベテル」は特に重要な場所でした。
エソウとヤコブは双子でした。ヤコブは兄エソウの踵を掴んで生まれて来たのでその名は「掴む」と言う意味があり「人を押し退ける者」「人を出し抜く者」と言われていました。エソウは野性的な狩人でヤコブは天幕の周りで働いていました。父は狩猟の肉が好きだったのでエソウを愛し、母はヤコブを愛しました。その為に家は乱れました。
 ヤコブは母と組んでエソウの長男の祝福の権利を奪います。そこでエソウはヤコブを憎み、殺意を抱くようになったのです。母はヤコブを自分の郷ハランに逃がします。
ベエル。シェバを発ってハランへ向かう途中の出来事が今日の28章のテキストです。

(ヤコブのベテル体験)
 ヤコブは夢を見ます。それは天から地に向かって階段が伸びていて神のみ使いが上がり下りしています。主なる神は逃亡中のヤコブに「あなたと共にいる。必ずこの地に連れ帰る。決して見捨てない」と力強く約束をされたのです。ヤコブは夢から覚めて、記念碑を立て、その地を「ベテル」と名付けます。これがヤコブのベテル体験です。

本論:
 多忙な現代社会に生きる私たちキリスト者も、この「ベテル体験」をしたいものです。そのベテル体験は二つあります。
(私たちのベテル体験)
(1)その第1の事は「神の臨在を確認する」事です。多忙な日常生活の中にあって私たちは神を思う事が少ないのではないかと思います。いや、神を忘れてはいないでしょうか。神と私たちとの極めて正確な「霊的距離」を常に保ち、神のみ顔が明瞭なポイントに自分を置く「臨在信仰」は大切です。私たちにとってはイエス・キリストを意識する信仰です。そしてその方法は「礼拝者」であり続けること、日々の祈りとみことばによるデボーションです。

(2)その第2の事は「信仰の成長を確認する」事です。ヤコブはずるい方法で長男の権利を手にしましたが今日のみことば16節にあるように「神のおられる事に気づきます」これは霊的な成長を意味します。そして石を記念碑として立てて神の家としました。
ここにヤコブの信仰の成長があります。32章の「ペニエル(神の顔を見る)の体験」を経て35章1節以降で、ヤコブは神の命令により、身を清め、衣服を整えてベテルに上り、苦難の時に共にいて下さった神に祭壇を築きました。そこを「エル・ベテル」と名付けたのです。
まとめ: 
 私たちの信仰生活において、日曜ごとの礼拝生活をとおして、またウイークデーのみことばと祈りをとおして「神の臨在」を確認し、信仰の成長(恵みの高嶺)を目指して歩み続けたいものです。祝福をお祈り致します。


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