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2011/06/26(日)
「主に従って生きるとは」畑中康夫勧士
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信徒礼拝 (聖書)使徒言行録7:54〜60 (ステファノ) ステファノは日常生活上の問題を処理するために選ばれた信徒7人の内の1人でした。ステファノは弟子たちが基準にあげた「霊と知恵に満ちた評判の良い人」の資格を備え、「信仰と聖霊に満ちた人」でした。そのステファノは「恵みと力に満ち、素晴らしい不思議な業としるしを民衆の間で行った」のでステファノを陥れようとする人々に訴えられて捕らえられ、石で打ち殺されキリスト教最初の殉教者となりました。
(ステファノの2つの祈り) ステファノに対して石が投げられる中でステファノは自分を迎えるために天に備えられている幻を垣間見ました。天が開いてイエスが神の右に立っておられるのを見たのです。 ステファノは暴行による死の混乱の中で2つの祈りを献げました。 @1つは「主イエスよ、私の霊をお受け取りください」と言う祈りです。これはステファノが主といつまでも一緒にいたいと言う祈りです。神のみ手の中に入れられたいという祈りでした。
A2つ目の祈りは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」というステファノを攻撃している者のための祈りです。この祈りはイエスが十字架の死が迫った時に祈られた祈りでもありました。そして「ステファノはこう言って眠りについた」とあります。 クリスチャンは「死」と言う代わりに「眠り」と言う言葉を使うようになったと言われています。眠りと言う言葉を比喩としてではなくて事実の表現として用いるのです。キリスト者は死という言葉の中に恵みに満ちた、希望に満ちた安息と目覚めを、眠りを見出すのです。 (参考・テサロニケの信徒への手紙T第4章13〜14節)
(忠実な僕としてみことばに生きる) 私たちは信仰に命をかける時代には生きてはいませんが、しかし主イエス・キリストを生涯、命をかけて信じる信仰、ステファノのように「主といつまでも、天国にまでも共にいる」という信仰と共に「自分を迫害する者のためにも祈る事が出来る愛の心」を持ちたいと思います。 私たちがこの世の生活で信仰が問われる時に、私たちは主を証しする生き方をしているでしょうか。私を非難する、私の悪口を言う人のためにも祈る生き方をする事が出来るでしょうか。神の教えに忠実に、どこまでも忠実に、キリストを信じる事には命を賭ける信仰に生きてキリストの忠実な僕としてみことばを生活規範としてみ言葉に生かされて生きたいものと思います
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