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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2011/06/26(日) 「主に従って生きるとは」畑中康夫勧士
信徒礼拝 (聖書)使徒言行録7:54〜60

(ステファノ)
ステファノは日常生活上の問題を処理するために選ばれた信徒7人の内の1人でした。ステファノは弟子たちが基準にあげた「霊と知恵に満ちた評判の良い人」の資格を備え、「信仰と聖霊に満ちた人」でした。そのステファノは「恵みと力に満ち、素晴らしい不思議な業としるしを民衆の間で行った」のでステファノを陥れようとする人々に訴えられて捕らえられ、石で打ち殺されキリスト教最初の殉教者となりました。

(ステファノの2つの祈り)
ステファノに対して石が投げられる中でステファノは自分を迎えるために天に備えられている幻を垣間見ました。天が開いてイエスが神の右に立っておられるのを見たのです。
ステファノは暴行による死の混乱の中で2つの祈りを献げました。
@1つは「主イエスよ、私の霊をお受け取りください」と言う祈りです。これはステファノが主といつまでも一緒にいたいと言う祈りです。神のみ手の中に入れられたいという祈りでした。

A2つ目の祈りは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」というステファノを攻撃している者のための祈りです。この祈りはイエスが十字架の死が迫った時に祈られた祈りでもありました。そして「ステファノはこう言って眠りについた」とあります。
クリスチャンは「死」と言う代わりに「眠り」と言う言葉を使うようになったと言われています。眠りと言う言葉を比喩としてではなくて事実の表現として用いるのです。キリスト者は死という言葉の中に恵みに満ちた、希望に満ちた安息と目覚めを、眠りを見出すのです。
  (参考・テサロニケの信徒への手紙T第4章13〜14節)

(忠実な僕としてみことばに生きる)
私たちは信仰に命をかける時代には生きてはいませんが、しかし主イエス・キリストを生涯、命をかけて信じる信仰、ステファノのように「主といつまでも、天国にまでも共にいる」という信仰と共に「自分を迫害する者のためにも祈る事が出来る愛の心」を持ちたいと思います。

 私たちがこの世の生活で信仰が問われる時に、私たちは主を証しする生き方をしているでしょうか。私を非難する、私の悪口を言う人のためにも祈る生き方をする事が出来るでしょうか。神の教えに忠実に、どこまでも忠実に、キリストを信じる事には命を賭ける信仰に生きてキリストの忠実な僕としてみことばを生活規範としてみ言葉に生かされて生きたいものと思います

2011/06/19(日) 「みことば〜密のように甘く」大嶋博道牧師
特別礼拝〜天国の西脇衛士兄と共に(聖書)コロサイ2:12〜17

(西脇兄を覚えて)
 今日は1年前に天国にお送りした西脇兄を覚えて礼拝を守ります。西脇兄は「みことばの人」でした。みことばに生かされた人生でした。全生活をみことばに献げられました。みことばが大好きでみことばを愛された人生を歩まれました。
(みことばとは何か)
みことばとは何か、それは
@わたしの今日と明日を照らすまことの光です。詩編119編105節に「あなたの御言葉は、わたしの道の光わたしの歩みを照らす灯」とあるとおりです。私の歩いている足下を照らし、私の将来を照らす光がみことばです。

Aみことばは密のように甘いのです。エゼキエル3章2〜3節に『主はこの巻物を私に食べさせて言われた。「人の子よ、私が与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは密のように口に甘かった。』とある通り、みことばを味わうと密のように甘いのです。
日々の生活の糧となる甘い味わいがみことばにはあります。

Bみことばは生活の中で偉大な力を発揮します。ヘブライ4章12節に「神の言葉は生きており、力を発揮し、…心の思いや考えを見分けることができるからです。」とあります。みことばが毎日私の中に入りますからみことばによって私の命を支えるのです。

Cみことばは魂の奥深くに宿るものです。頭の中ではなく、心の奥深くに宿るのです。コロサイ3章16節にも「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」とあります。ウエスレ−は「聖書のみことばを魂の奥深くに宿らせよ(residence)」と言っています。(私たちの生活の基準となるみことば)

 みことばに触れましょう。親しみましょう。みことばに生かされて生きるとは全ての事において聖書を基準として生きると言う事です。大きな事にも小さな事にも私の人生全てに対して聖書を基準として生きると言う事です。私たちの日々の生活の中で、全ての場面においてみことばを重んじる生活をするようにしましょう。

2011/06/12(日) 「神は養ってくださる」 大嶋博道牧師
ペンテコステ花の日大人子ども合同礼拝 (聖書)ルカ12:22〜32
序 論:
 今日のみことばの中に「だから」と言う言葉が使われており、その後に「…思い悩むな」が続きます。「だから」とはルカ12:13〜21の自分のために倉を建てて豊作の穀物を収納した愚かな金持ちの生き様を指しています。イエスは「今夜、命を失ったら倉の穀物は誰のものになるのか?」と問いかけています。だから、「あくせく思い悩むな」というのです。
 
さて、「思い悩み」は一体どこから来るのでしょうか。
「思い悩み(メリムナ)」とは、ある事柄に心が虜になること、また「心が集中出来ない」状態すなわち「心の分割」を言います。私たちの思い悩みは@お金の事A健康の事B自分に課せられた責任を果たす能力の事C容姿の事D性格の事E人間関係の事F子
育ての事G仕事の事H結婚の事I自分の将来の事、等々生きていく上で生じる様々な事から生じてきます。あれこれ思って心が集中出来なくなり、不安定になるのです。

 では、人間は何故「思い悩む」のでしょうか。
 @思い通りにならない未来を思い通りになると思いこむから。(計画通りには)
 A私たち人間は全ての事柄をマイナスに考えるから(悲観的、消極的)
 B私たちは物を持ちすぎているから
 C人間の本質は「未完成」であると言う事を受け入れないから
 D私たちは自分の人生を神様に委ねる事が出来ないから。

本 論:
 イエス様は今日の聖書のみ言葉にあるように私たちの目を「空の鳥や野の花」に向けさせられました。それは、空の鳥(カラス)は種も蒔かず、刈ることもないのに神は養って下さり、野原の花(野アザミ)は働きもせず、紡ぎもしないのに神は装って下さるのです。
 「まして、あなたがたにはなおさらのことである」(28節)と神は言われます。詩編37:3〜5に「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」というみことばがあります。徹底的に主に信頼し、信仰に生きることが求められています。野の草花を見ながら、神様のご配慮に気づきたいと思います。神のご配慮は「予め見ておられる神(pro-video)」だからです。

まとめ:
 ジョン・ウエスレーは「思い悩む」という説教でこう述べています。「遠い将来に何をしようなどと、思い悩んではなりません。そのような遠い将来はあなたに来ないかも知れません。また、あなたの関心事でなくなっているかも知れません。その前に、あなたは人生のあらゆる波をくぐり抜けて永遠の岸辺(天国)に到達しているかも知れません。あなたはその日その日の存在でしかないのです。神はあなたに与えられたいのちを支えるために必要なものは何でも、今日あなたのために備えてくださいます。神の御手にゆだねなさい。」と。
 
 明日は神様の領域です。私たちの持ち時間ではないのです。私たちは、明日に向けられている私たちの思い悩みをすべて神に委ね、最善が成ることを信じて生きるだけでいいのです。

2011/06/05(日) 「宝の民とされて」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 (聖書)申命記7:6〜8

本日の説教の題は本来なら「私たちは神の・・・」とすべきでしょうか。
 今日は申命記のテキストをを通して次の3つの事を学びます。

(1)選びの民である。
 私たちは「選びの民」であると言う事がその第1の事です。神は当時のエジプトやアッシリアのような強大な国でなく、欠けの多い、貧弱な者、最も数が少なかったイスラエルの民をあえて選
ばれたのです。主が心引かれて選ばれた理由は、彼らが「貧弱であった」からなのです。
同様に、神は「この世の無に等しい者(私たち)」をあえて選ばれたのです。選びの主体は神にあります。

(2)宝の民である
 神ご自身の「宝の民」とされたと言う事がその第2の事です。滅び行く、さすらいの民であったイスラエルの民を主は「宝の民」とされました。「宝」と訳されたヘブル語の「セグッラ」は「私有財産」という意味で、極めて主観的な財産のこと、神にとっての特別な「宝」とすることなのです。神は民を「ご自身の宝の民」とされたのです。

(3)聖なる民である。
 あなたの神、主の「聖なる民」とされた、と言う事が第3の事です。神は私たちをこの世に「証し人」として遣わすために、私たちを「聖なる者」として下さるのです。
 前後しますが、「聖」とは「分離」「区別」と言う意味があります。他の者と「分けて」神が特別に「聖別」されたのです。私たちは神の所有物として「聖別」されたのです。
 私たちが献げる献金も自分の財布の中にあるときは聖なるものではありません。しかし、これを祈りつつ、主の御心にそって信仰をもって神に献げる時に、神はそれを「聖なるもの」として下
さるのです。私たちも自らを神にささげましょう。「主よ、わたしをきよめてあなたのご用に用いてください」と。
 私たちの教団標語「全き愛から更なる宣教へ」というのは、まさにこの意味なのです。私たちは全ききよめをいただいて(全き愛に満たされて)、福音宣教へと遣わされたいものです。

「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがた が広く伝えるためなのです。」(ペトロ第一2:9)


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