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2011/07/31(日) 「恵みの座に近づこう」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ヘブライ4:14〜16

(序論)
 クリスチャンの信仰生涯で最も大切なことは大胆に「神の恵みの座」に近づくことです。
聖書は私たちが神に近づくことを幾つかの箇所で私たちに奨励しています。
(例・エペソ3章12節、ヘブライ10章22節、ヤコブ4章8節、出エジプト16章9節等)
今日はそのみ言葉の中から
@「恵みの座」とは何か
A何のために恵みの座に近づくのか
Bどのようにして恵みの座に近づいたら良いのか
C恵みの座に近づいたらどのようになる
のか、について学びます。

(本論)
@「恵みの座」とは何か
 恵みの座はメソジスト信仰の特色と言われ、ホーリネスや日本イエスなどの「きよめ派」の幾つかのキリスト教会には講壇の前に跪いて祈るための木製のベンチ、あるいはサクなどが備えられています。聖餐式においては、教職は陪餐者をこの恵みの座に招くことがあります。その恵みの座は私たちがイエス・キリストの十字架による罪の贖い、永遠の命、魂の安息と平安が与えられる場であり献身の場でもあります。

A何のために「恵みの座」に近づくのか?
 それは本日のみ言葉に私たちはキリストによって神の恵みの座に近づく事が出来るとあり、そして続いて16節にあるように「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けを頂く」ためなのです。人生の大切な節目には恵みの座に近づき、神の御心を求めたいものです。

Bどのようにして「恵みの座」に近づくのか?
 それは16節に「大胆に」と教えられているように、わたしたちは「はばかることなく、遠慮したり躊躇することなく大胆に神の恵みの座に近づくようにする」のです。マザ−テレサは毎朝早く起きて「恵みの座」にひれ伏して「あなたのみ手の中で私を自由に用いてください。・・・愛の働きができますように」と祈りました。

C恵みの座」に近づいたらどうなるのか
「恵みの座」に近づく信仰生活は次のものをもたらせます。
(1)私たちの魂が清められます。
(2)私たちの思いが清くされます。
(3)私たちに新たな献身使命が与えられます。
(4)私たちは清められた生涯を歩む事が出来ます。それは謙った愛の実践を伴う生きた信仰のことです。

(まとめ)
私たちはみ言葉に教えられたように大胆に、はばかる事なく神の座に近づき、今日からまた、清められた生涯、へりくだった生涯を歩む事が出来るように祈り、献身して主に従う生活に励みたいと思います。

2011/07/24(日) 「疲れを知らない元気な人生」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)イザヤ40:26〜31

序 論:
 冒頭のみことばのように、聖書の時代の人々も、現代人も含めて人間は疲れ、弱り果てる存在です。さらに、P.ティーリッヒが述べているように、現代人は潜在的に
@意味喪失の不安 
A罪過と呪いの不安 
B死の不安を感じています。
 今日の聖書は、神学的には「第二イザヤ書」と呼ばれている箇所です。都エルサレムが侵略され、人々はバビロンに捕囚の民となって連行されました。しかし、神は預言者イザヤをとおして「回復(エルサレム帰還)」の約束をされたのです。40章以降は、従って「慰めと希望」のメッセージが記されています。
 31節には「主に望みをおく人は新たな力を得る」という神の力強い約束が語られています。「新しい力」とは「もっと良いものに交換される」ことを意味しています。すると、天空を駆けめぐるあの鷲のように元気を回復し、弱ることなく疲れないというのです。私たちもそのようなエネルギーを信仰生活の中で与えられたいと思います。では、新たな力はどうしたら手にすることができるのでしょうか?
本 論:
 新たなる力はどうしたら得られるのか?
(1)主に望みをおくこと
 主に望みをおくとは、主に信頼して忍耐強く待つこと〜主がなされる最善に委ねて生きる(詩編37:3〜5)。さらに、主を信じ、期待して、あきらめることなく待つことです。「待つこと」により、自分が何を求めているかを知る。待つことによって忍耐が養われる。待つことで主のみ心を知ることができる。そして待つことの中に信頼が生まれる。ある牧師は「神様の本格的な恵みは、私たちが疲れ切ったところ、挫折や失敗で意気消沈しているところから始まる」と言いました。

(2)主を人生の土台とする(コリント第一3:10〜11)
なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。

(3)主をファイナルアンサー(最終の答え)とする
 「生きるのも死ぬのも主の栄光のため」(ローマ14:8〜9)

まとめ:
 宮城県気仙沼市で印刷工場を経営しているA夫妻は今回の大震災による津波で印刷工場が被災。しかし、大試練を潜りぬけて印刷工場を再建。しかも、工場の半分を被災したご自分の教会の礼拝場として提供しておられる。最初は下向き(絶望)、しだいに前向き(希望)、そして今は上向き(さらなる天国への希望)の人生を歩んでおられる。
 私たちの人生は「恵みの中のMAZE(迷路)な人生」。しかし、主を待ち望む者は疲れを知らず、新たなる力を得て鷲のように天空を駆けめぐることができる。

2011/07/17(日) 「聖なる傷あとに触れて」大嶋博道牧師
聖日礼拝 ヨハネ20:19〜29

(復活の主イエスが見せられたもの)
 結論から申し上げますと、私たちは十字架に架けられて贖いの死を遂げてくださった主イエスの「手とわき腹の聖なる傷あと」に触れることによって慰められ、癒され、真の命を得ることが出来ます。
 
今日のみ言葉によると復活されたイエスは甦られたその日の夕方に弟子たちの所に入って来られて「シャローム(あなた方に平和があるように)」と挨拶をされました。そしてご自身から弟子たちに手とわき腹を見せられました。弟子たちはこれを見てこの方がイ
エスであると確信したのです。しかし、トマスはこの場所に一緒にいなかったので、彼は「手に釘の跡を見、指を釘跡に入れてみなければ決して信じない」と言いました。
 8日後、トマスの居る所にイエスが現れ、ご自身から「わたしの手を見なさい。手を伸ばしてわたしのわき腹に入れなさい」と促されたのです。そしてトマスはそれを見て復活のイエスを信じたのです。

 私たちも主イエスを見て確信し信仰を確認すること、即ち、主イエスの傷跡を見て、触れ続ける信仰生活を送ることは大切なことなのです。 ところで、私たちには肉体の傷だけでなく、心に刻まれた傷があります。その傷はお互いに触れられたくない傷です。
そしてしばしば疼いたり痛むことがあります。しかし、私たちはその傷を引き受けて人生を歩まなければなりません。その事は大切なことなのです。

(本論)
 では、私たちは何故、主イエスの聖なる傷に触れる事が大切なのでしょうか。元より、主イエスの聖なる傷に触れるとは、礼拝において聖書のメッセージに触れたり、喜びを以て賛美したり、日々、みことばと祈りに支えられる信仰生活のことです。その事をとおして聖なるみ傷に触れる事が出来るからです。

 そしてその必要性は2つあります。
@自らの人生の中で経験した傷跡、即ち罪深さや弱さに気づかされてそこから解放されるため。弟子たちはイエスの傷に触れる事によってイエスを見捨てて逃げた自らの罪深さに気づきました。そしてそのままの姿を主イエスに受け入れられて癒されたのです。
A第2の事は新たな生きる使命を与えられる事です。人はどのように生きるかと言う事が求められているからです。
イザヤは神殿で聖なる神の臨在に触れて、自らの罪が赦されて預言者としての新しい使命(遣わされること)を与えられたのです。

(まとめ)
パウロは「私は十字架の主以外に誇るものはない」と言っています。私たちも十字架の主イエスを誇りとし、このお方の聖なる傷跡に触れることによって慰めを得、癒され、真の命を得たいと思います。主イエスから目を離さないで信仰生活を続けましょう。

2011/07/10(日) 「そのままのあなたで」熊谷直也伝道師(五條キリスト教会)
伝道献身者奨励礼拝 ヨハネによる福音書21:15〜23

(伝道献身者奨励礼拝に寄せて)
 今日のみ言葉は私が献身の時に与えられたみ言葉です。
20章30〜31節に「イエスの名により命を受けるため」と本書の目的が書かれており21章はそれに続いて書かれたものです。今日は私が神学生の時にご奉仕した御教会で伝道献身者
奨励礼拝のご奉仕が出来る事を感謝し、私の献身のみ言葉から学びます。

(本書が書かれた理由)
 今日のみ言葉が書かれた理由は@イエスが愛していた弟子(ヨハネ)が死なないとの噂が出たためにその誤解を解くためA弟子の1人のペトロがその後どうなったのか(弟子の回復)を書く事でした。
 み言葉によるとガリラヤに行けばイエスに出会えると思っていた弟子はそこではイエスにお会い出来ませんでした。その時にイエスが現れ、準備してくださった食事が終わった後にペトロは、イエスは変わっておられないのに自分は変わってしまったと気づきます。そこでは次の様な出来事がありました。

(わたしを愛するか)
 食事が終わるとイエスはペトロに「私を愛しているか」と3度も問われます。3度も同じ事を問われたのはペトロがイエスを3度も知らないと言ったからではないかと言われています。3度も「わたしを愛しているか」と問われたペトロは「わたしがあなたを愛している事はあなたがご存じです」と答えます。ペトロが愛していますと答えた「愛(フィリア)」とイエスが言われた「愛(アガペー)」には大きな違いがありました。それは「人の愛」「神の愛」の違いです。イエスは2度はアガペー(神の愛)を、そして3度目にはフィレア(人間の愛)と言う言葉を使われています。
 この事はイエスはペトロに「そのままのあなたで良いのです。」と言っておられるのではないでしようか。神の愛を説かれたペトロは自分をさらけ出してイエスを受け入れます。そしてこのようなペトロをイエスはありまのので受け入れてくださったのです。3度も知らないと言った弱さをさらけ出したペトロをそのままで受け入れてくださったのです。

(イエスの後ろ姿に従って歩む)
 「わたしに従いなさい。わたしが歩いて行くからその後について来なさい」と言ってくださるイエス、「そのままの姿で良いからわたしについて歩いて来なさい」とイエスは言われるのです。私たちもイエスの招きに応じてイエスの後ろに姿に従って歩いていきたいものです。わたしを招いてくださるイエスのみ姿を確認しながら。「確信は確認の連続です」。一つ一つ確認しながら、神に対する確信に招かれたいと思います。

2011/07/03(日) 「あなたはどこに立っているのか」大嶋博道牧師
総員礼拝 (聖書)ヨシュア記5:13〜15
序 論:
(神からの問いかけ)
聖書は私たちに「あなたはどこに立っているのか」と問うています。それは、具体的な場所ではなくて「心の状態」を尋ねているのです。あたなはどんな心の状態で、何を目的に、何を支えに生きていますか?あなたの人生は大丈夫ですか?と神は問われています。
 旧約聖書において神は2人の偉大な指導者に問いかけておられます。1人はモ−セで出エジプト3章5節での問いです。モ−セが土足で(履き物をはいて)聖なる場所(神の山ホレブ)に立っていた時に神は問いかけられました。もう一人は今日のテキストのモーセの後継者ヨシュアに対して問いかけられました。

(神からの言葉…全てを委ねて生きよ)
 神はヨシュアと共に居られました。ヨシュアがギルガルを出てエリコのを目の前にした時に彼らは土地の産物を食べ始めました。そしてその時からマナは降らなくなりました。自ら農耕をしなければならなくなったのです。その上に、前にそびえる難攻不落のエリコの城壁を乗り越えなくてはならないという不安と恐れの中で祈りつつ立っていた事でしょう。ヨシュアは責任者として乗り越えなければならない人生の壁を前にして立っていたのです。その時にヨシアの前に一人の男が立ちます。(5:13)その男は主の軍の将軍であると言います。これを聞いたヨシュアは地
にひれ伏して拝みます。男はヨシュアに「あなたの足から履き物を脱げ。…」と言われました。
主は「わたしを信頼し、あなたの権利をわたしに譲渡しなさい」と、言われたのです。ヨシュアの戦いは実は主ご自身の聖なる戦いだったのです。「全てを主に委ねて生きなさい」と言われた
のです。

本 論:
(あなたの立ち位置)
 この世に生きるキリスト者はどこに立つべきか。その立ち位置はどうあるべきかをお伝えしたい。
@聖なる臨在に触れ続ける場所に立つと言うことが第1の事です。この世に倣わないで(調子を合わさないで)聖なる神の臨在に向き合って立つのです。その具体的なあり方はローマ12:1
〜2に記されています。

A主のみ前では履き物を脱いで立つと言うこと〜すなわち全き明け渡しをして生きると言うことです。「履き物を脱ぐ」とは権利の譲渡を意味します。主は最善をなしてくださることを信じ、委
ねて生きることです。(ペトロ第一5:7のみ言葉を心に留めましょう。)

B自分の利益のためではなくて他者の利益の為に、共に生きる者の「得」のために生きるという考えに立つと言う事です。あなたの立ち位置はここにあるのです。

まとめ:
 わたしたちの立ち位置は主の臨在の前であり、全く明け渡しであり、喜んで犠牲を引き受けるところにあります。そこに立ち続ける時に、神は必ず祝福し、勝利をもたらせてくださるのです。  


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