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2011/08/14(日)
「一粒の麦」畑中康雄勧士
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信徒礼拝 ヨハネ12:20〜26 (プロロ−グ) 12章の1節以下によるとイエスは過越の祭りの6日前にベタニヤに行かれました。大勢のユダヤ人が祭りの時、礼拝のために上って来た人々の中にギリシャ人が幾人かいました。このギリシャ人(異邦人)はイエスに出会えたのでしょうか。(イエスにお目にかかりたいのですが) この人たちがフィリポの所に来て「イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼みました。イエスはフィリポとアンデレがギリシャ人がイエスに会いたがっていると言う問いかけに対して全く違った事を言われます。「人の子が栄光を受けるその時が来た」と。 それは23節にあるように「ご自分の時が来た」と言う事を知っておられたからです。キリストの十字架による罪の贖いがなければ異邦人の罪の赦し、救いは無いからです。十字架上で死に、よみがえられ事により神の子イエスは死に対する勝利者となられるからです。ですからギリシャ人が救いを求めて来た時に彼らに本当の救いを差し出すためには十字架による贖いが必要でした。そのために「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたのです。そして聖書の注解書によると23節以下のイエスのお言葉はイエスに出会ったギリシャ人に語られたイエスのお言葉の要約ではないかと言われています。このギリシャ人はフィリポとアンデレの案内でキリストに出会う事が出来て、本当の救いに与る事が出来たのです。
(私たちに何が出来るか) 今日は23節の「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した」と言う箇所に注目してお話をしました。それは私たちに出来る奉仕は何かと言う事をご一緒に考えるためです。私たちの奉仕は何でしょうか。イエスに会いに来たギリシャ人は誰かの案内がなければイエスにお会いする事が出来なかったのです。 フィリポとアンデレはイエスに会いたいと願っているギリシャ人をイエスに引き合わせると言う大切な働きをしたのです。フィリポとアンデレの手引きでイエスに出会ったギリシャ人は26節にあるように「わたしに仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」と言うお言葉通りギリシャ人はイエスに従う事により神様 に大切にされる者となった事でしょう。そのための大切な働きをしたのがフィリポとアンデレでした。この2人の働きが無ければギリシャ人はイエスにお目にかかれなかったのです。 イエスは御自身を一粒の麦と言われました。私たちはイエスの言葉に従う者ですから「一粒の麦」である主に倣って、そしてこのフィリポとアンデレの働きに倣って小さくても実を結ぶ働きに加わりたいものです。
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