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最新の絵日記ダイジェスト
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2011/09/25(日) 「あなたも行って、同じようにしなさい」大嶋博道牧師
献堂15周年&教会創立20周年記念礼拝 ルカ10:36〜37,ヨハネ13:1〜5

はじめに:
本日は教会創立20周年及び献堂15周年記念礼拝を守ります。また、午後には“ウエルカムオ−プン・チャ−チ”で「是枝律子ト−ク・ショ−」を催しますが、この礼拝の中でも是枝律子姉
にお証をしていただきました。

本 論:
@「善いサマリヤ人」の物語から学ぶ
行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)
 主イエスは私たちに、強盗に襲われ傷ついた人に出会った祭司・レビ人・サマリア人の3人のうち、誰がこの人の善き隣人になったかを問うておられます。
その答えは33節にある「その人を見て憐れみに思い、近寄って傷の手当てをした」サマリヤ人です。このサマリヤ人の行為は簡単には出来る事ではないので、このみ言葉は今日でもなお生きているのです。サマリア人は、傷ついた人を宿屋に伴い、主人に介抱を依頼し、デナリオン銀貨2枚を渡し、「費用がもっとかかったら帰りに支払います」とまで言います。
わたしの隣人とは誰か」と問うた律法の専門家に「あなたも行って同じようにしなさい」と主イエスは答えられた。隣人の定義、愛の定義をするのでなく、私たちも「実践」したいものです。

A主イエスの「洗足」から学ぶ
あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14) 主イエスは十字架の死を前にした「最後の晩餐」の時に弟子たちの足を洗われました。弟子をこよなく(極みまで)愛されたからです。愛は「貯蓄」する事が出来ません。貯めておいて小出しに使う事は出来ないのです。
主イエスは自分を裏切る事になる弟子をも含めて、極みまで、100パ-セント愛されました。そのようにして弟子たちの足を洗われたのです。イエスは全ての人の足を洗われたのです。

 マザ−・テレサは「貧しい人は美しい(Poor is beautiful)」言われました。スラム街の行き倒れの人、病気の人、食べられない人、社会的に人間として認められないような無価値な人が一番美しいと言われたのです。
なぜなら、それらの人たちの中に生けるキリストを見るからです。
貧しい人たちの存在に気づき、憐れに感じて近寄り、愛のケアで関わるならば「行って同じように」と「互いに足を洗いなさい」が実現します。

結 論:
 悲しんでいる人、苦しんでいる人の声をじっと、心を傾けて聴くことが出来るようになりましよう。そして「あなたも行って同じようにしなさい」とのみ言葉から学んだように、愛の実践に励みましょう。
心から互いに足を洗い合い、仕え合いながら。それが「マザー・テレサの心」です。

2011/09/18(日) 「夕暮れにも光がある」大嶋博道牧師
高齢者祝福礼拝 申命記34:1〜12,ゼカリア14:7

(序論)
今日は高齢者祝福礼拝を守ります。本日のメッセ−ジの中心となるみ言葉は7節のみ言葉です。
さて何歳からが高齢者なのでしょうか。日野原先生は「新老人運動」の中で75歳以上を「新老人」と位置づけておられます。(私たちの教会も75歳以上の方を後ほど、祝福させていただきます)
聖書に登場する人物で理想的な老人といえばモ−セです。モ−セは高齢になっても精神的にも肉体的にも霊的にも整えられていました。

(モ−セの人生)
モ−セの人生は40年毎に区切る事が出来ます。最初の40年は「王宮で過ごした恵まれた40年」次の40年は「羊飼いとして過ごした40年」そして最後の40年は「出エジプトの荒野での40年」でした。そしてそのいずれもが主に祝された人生でした。全てが祝された人生でしたが、最後の年には約束の地を「見る事は出来た」が「入る事は出来なかった」のでした。(34章4節)このためモ−セの死を「未完の死」ということが出来ます。この事から、私たちの命は主が握っておられるという事が出来ます。

(本論)
ゼカリヤ書14章7節に「夕べになっても光がある」と言うみ言葉があります。これはどういう意味のみ言葉でしょうか。人生の夕暮れには健康が優れなかったりこの世の働きから離れていく事があります。侘びしさが漂います。しかし聖書には「光がある」とあります。これは神がなされる奇跡のみ業です。
この事は高齢者になっても希望や夢や幸いがあると受け止めている方が多いと思いますが実際にはどうなんでしょうか。

(結論)
神は神に召された人たちと共に働いて全てを最善に変えてくださる」と言うのが「夕べになっても光がある」と言う意味の言葉なのです。そしてこの事は高齢者に限らず若い方々にも言える事、該当する事なのです。このことを約束してくださる神様に感謝します。

2011/09/11(日) 「あなたの香油の壺を割って」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 マルコ14:3〜7
(序論)
 この物語は3つの福音書に書かれています。
(マルコ14:3〜9/ヨハネ12:1〜8/ルカ7:36〜50)そしてその3つの物語に共通しているところは、
@1人の若い女性がイエス・キリストのところに来た事
Aこの女性は高価な香油(300デナリとも言われている)の入った石膏 の壺を持って来てそれを割ってイエス・キリストにふり注いだ事
Bこの行為は大きな反響をもたらした事です。(世界中どこでも・・・記念として語り伝えられる。)
では何故この女性は「石膏の壺を割ったのか」「何故全ての香油をキリストに降り注いだのか」という疑問があります。これは皆さんに答えて頂きたいと思います。

(本論)
 この物語から学ぶ事は2つあります。
@第一の事〜あなたの人生の香油の壺を割ってみてはどうか、ということです。自分の頑なな壺を壊してみなさいという事が第1の教えです。何かにしがみついているあなたは、一度それらを手放して自分を見直してみてはどうでしょうか。自分の殻を破ってキリストの前に全てをさらけ出してみる事が大切なことなのです。そのことによって、自分の本当の拠り所、自分を根底から支えているもの(お方)が見えてくるのです。(参考:詩編46の11節)

A第二の事〜あなたの人生を主に献げることが大切なことであるという事です。
キリスト者(クリスチャン)は日曜日に礼拝のために教会に行きます。賛美したり祈ったりします。証しをしたり伝道します。すべてのことにおいて聖書に従う生き方をする人の事です。よって立つ根拠として聖書を持っている人がキリスト者なのです。(ウエスレーは「私は大きな事、小さな事、すべてにおいて聖書に従う」と述べています。)しかし、何よりも大切なことは、自分の人生を主なる神に献げる生き方をする人こそキリスト者なのです。(参考:ロマ12章1節)

(まとめ)
 自分の結婚のために準備していたであろう香油を全ておささげした1人の女性は、キリストが自分たちのために十字架に架かってくださる事を知っていたのです。そしてこの女性はこのお方こそ「油注がれたメシア(キリスト)」であることを受け入れていたのです。あなたも、自分を神の前にさらけ出して、明け渡して、全てを主にお委ねしてみてはどうでしょうか。あなたの香油の壺を割りませんか。主のため、人のために!(祝福をお祈り致します。)

2011/09/04(日) 「収穫の主を仰ぎつつ」(台湾聖光神学校)D.クレメンテ牧師
特別礼拝 マタイ9:35〜38
(序論)
台湾FM聖光神学校の教授をしていますD・クレメンテです。御教会をお訪ねしてこのように共に礼拝を守り主のお言葉をお伝え出来る事を光栄に覚えます。今日は主の収穫、即ち救われる民がどれほど神の憐れみを受けているかとという事をお伝えします。世界中の多くの人々が神様の憐れみにより洗礼を受けて救われています。
FMの群れの中にもそのような「収穫」の恵みを与えて下さっています。神はその民を収穫するためにいろんな人を招いてくださいます。その事を今日のみ言葉から学びます。

(本論)
 今朝のテキストのみ言葉によるとイエスは愛をもって人々に接し、そして祈りをもって応答しておられます。本日の聖書の箇所から3つの事を学びます。

@その第1の事は「イエスの愛と憐れみ」です。イエスは人々を見て深い「憐れみ」を覚えたとありますがこれはギリシャ語では「スプランクナ(腸・内臓・はらわたの意味)」と言います。イエスがどれ程人々を愛されたかという時に使われる言葉です。日本語で言うと「断腸の思い」と言う言葉でしょうか。救われるべき民が多くいるというイエスの思いから出た言葉かと思います。痛みを覚え、思わず何かをせずにはおれないという事を意味しています。イエスの愛はそれ程大きな愛でした。私たちもこのイエスの思いで隣人に接しましょう。

A第2の事は「イエスの目を通して人々を見る」と言う事です。み言葉に「飼い主のいない羊」とあります。「無力な者、散らされていく者」と言う意味です。主は私たちを無力で救いの必要な存在と見られています。私たちもそのような目で隣人のために祈らなければなりません。私たちは無力者ですが真の救い主の助けを得て、人々のために働かなければなりません。

B第3の事は私たちはこの世の人に「神様は収穫の神である」という事を伝えなければなりません。神が助けてくださるのですから働き主の良きパ−トナ−としての務めを果たすことが出来ます。
そのようにすると神ご自身が働いて収穫をもたらしてくださいます。私がただ今皆様に幾つかの事例をお伝えしましたようにその事を沢山経験しました。皆さんは収穫の働きをしようという備えがありますか。その為に祈りましょう。

(結論)
 「イエスならこの人をどう見ておられるか」「どのように導かれるか」という思いで人々に接する事が大切です。主の収穫に備えるためにまず「主イエスを語り伝えましょう。」「人々のことに耳を傾けましょう。」「霊が私たちに語られることをよく聴きましょう。」今、収穫は多いです。


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