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2011/09/18(日)
「夕暮れにも光がある」大嶋博道牧師
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高齢者祝福礼拝 申命記34:1〜12,ゼカリア14:7 (序論) 今日は高齢者祝福礼拝を守ります。本日のメッセ−ジの中心となるみ言葉は7節のみ言葉です。 さて何歳からが高齢者なのでしょうか。日野原先生は「新老人運動」の中で75歳以上を「新老人」と位置づけておられます。(私たちの教会も75歳以上の方を後ほど、祝福させていただきます) 聖書に登場する人物で理想的な老人といえばモ−セです。モ−セは高齢になっても精神的にも肉体的にも霊的にも整えられていました。
(モ−セの人生) モ−セの人生は40年毎に区切る事が出来ます。最初の40年は「王宮で過ごした恵まれた40年」次の40年は「羊飼いとして過ごした40年」そして最後の40年は「出エジプトの荒野での40年」でした。そしてそのいずれもが主に祝された人生でした。全てが祝された人生でしたが、最後の年には約束の地を「見る事は出来た」が「入る事は出来なかった」のでした。(34章4節)このためモ−セの死を「未完の死」ということが出来ます。この事から、私たちの命は主が握っておられるという事が出来ます。
(本論) ゼカリヤ書14章7節に「夕べになっても光がある」と言うみ言葉があります。これはどういう意味のみ言葉でしょうか。人生の夕暮れには健康が優れなかったりこの世の働きから離れていく事があります。侘びしさが漂います。しかし聖書には「光がある」とあります。これは神がなされる奇跡のみ業です。 この事は高齢者になっても希望や夢や幸いがあると受け止めている方が多いと思いますが実際にはどうなんでしょうか。
(結論) 「神は神に召された人たちと共に働いて全てを最善に変えてくださる」と言うのが「夕べになっても光がある」と言う意味の言葉なのです。そしてこの事は高齢者に限らず若い方々にも言える事、該当する事なのです。このことを約束してくださる神様に感謝します。
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