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2012/01/01(日)
「わたし自身が同行する」大嶋博道牧師
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大人子ども合同元旦礼拝 出エジプト33:12〜17 (序論) 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 さて私の今年の祈りの課題は「再起・再生」です。時として思いがけない「想定外の事」が起こるのが人生です。喜びもありますが、悲しみのどん底に落とされる事があるのが人生です。昨年は思いもかけない東日本大震災と原発事故がありました。このような時に私たちは生かされているという意味を問われます。何を根拠に生きているのかと根本的な事が問われます。
今日のみ言葉はその答えでもあります。み言葉の中心は14節の「わたしが自ら同行し、安心を与える」という箇所です。 テキストによると、イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出してすぐ荒れ野に入ります。荒野とは命が育たないところ、食べ物や飲み物がなく、死が支配するところです。彼らの関心事は「神が荒れ野の旅に同行してくださるかどうか」でした。モーセが民から離れてホレブの山で神と出会っている時に、不安に駆られたイスラエルの民「金の子牛」の偶像を造りました。それを見た神は怒られました。そして「もうあなたたちとは一緒には行かない」と怒って言われました。その時にモ−セは神に赦しを乞い、神の同行を何度も願い求めたのです。 その結果、17節の「わたしはあなたのこの願いもかなえよう」と言う約束を得ました。
(本論) 今日はこの事から次の2つの事を学びます。 @神は臨在の神である、ということがその第一の事です。 まさに聖書の神は「インマヌエル・ア−メン」の神です。神は我々と共に在ると言う事です。 主は喜びの時も悲しみの時も、順境の時も逆境の時も共にいてくださるのです。この恵みに与りましょう。
A我々の神は必要を備えてくださる神であるということがその第二の事です。 アブラハムは唯一の息子イサクをモリヤの山に生け贄としてささげましたが、寸前で、神は彼に思いとどまらせました。そして神は本来生け贄としてささげるべき「雄羊」を用意しておられた のです。私たちの神はアドナイ・イルエ(備えてくださる=見ておられる)の神でなのです。 神は私たちの今と将来をずっと見通しておられ、必要を予め備えていてくださるのです。 そのことを確信して歩んでいきましょう。(創世記22:7)
(まとめ) 今年1年、皆様にとって祝福された年でありますように願っています。主が常に備えてくださり、最善を成してくださることをお祈りしています。主にあって良い交わりが、ご奉仕が,信仰生活が、家庭生活が続けられますようにお祈り致します。
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