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最新の絵日記ダイジェスト
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2012/10/28(日) 「もう泣かなくてよい」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 ルカ7:11〜17
(序 論)
 今日のテキストの舞台はナザレから約9q離れたナインという町です。
イエスはその町の門に近づかれた時に、ある母親の息子の葬儀の行列に出会われました。
 当時、「死体に触れると穢れるれる」(民数記19:11)と考えられていたので、墓地は町の外にありました。ユダヤの気候・風土・習慣から、人が死ぬとその日のうちに葬られました。悲しみの別れをする暇がありませんでした。
 1人息子を亡くした母親はやもめであったと書かれています。この母親はどんなにか悲しかった事でしょう。その葬儀の行列には町の人が大勢付き添っていたと書かれています。(ルカ7:12)
 その葬儀の行列に出会わせたイエスは泣いている母親に「もう、泣かなくて良い」と言われました。イエスは悲しんでいる母親をご覧になり、憐れに思い、棺に手を触れられたのです。
そして「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命令されたのです。するとこの息子は、むくむくと起き上がってものを言い始めたのです。

(本 論)
 さて、この聖書の箇所から現代に生きる私たちは何を学べば良いのでしょうか。ここから次の3つの事を学びます。
@神は「憐れみの神である」という事が第一のことです。「神の憐れみ」は積極的で且つ自発的です。憐れむとは「忘れない」こと、「見捨てない」という事です。私たちをずっと覚えておられるのが神です。ハガルに出会われた神のように、私たちの神は「エル・ロイ(見ておられる=顧みる)」の神です。(創世記16章18節)
A神はご自身の涙の革袋を持っておられるお方であるという事が第二のことです。 (詩編56篇9節)
神は私たちがもう泣かなくても良い状態に変えてくださるお方なのです。神は神さまの革袋に私たちの涙を蓄えてくださる神なのです。

B私たちは復活の命に与ることが出来るという事が第三のことです。母親の独り息子を生き返らせた出来事は、イエスがメシアであり、神の子であることの証しであります。
そして、主イエスは十字架の死から復活されたのです。主イエスを信じる私たちも復活の命に与ることが出来るのです。ですから、「もう泣かなくてよい」のです。

(まとめ)
神はもう泣かなくても良い状態に私たちを変えてくださるお方であることを心から信じて、日々、喜びと感謝をもって歩みたいと思います。

2012/10/21(日) 「十字架の言葉」東 隆 牧師
特別礼拝 コリント第一1:18〜25

まず、このような愛に溢れた、温かい教会に迎えられたことを感謝します。今日は「十字架の言葉」を中心テーマにお話しさせていただきます。
パウロの手紙の宛先の「コリントは」ギリシャの真ん中に位置し、当時、繁栄していた都会でした。そのコリントにある教会に、パウロは福音のエッセンスは「イエス・キリストの十字架」であることを手紙で書き送っています。
彼は別の手紙で自分のことを「イエス・キリストのしもべ(奴隷)」と紹介して います。それが彼自身の誇りであったからです。私たちもキリストのしもべであることを誇りとしたいと思います。
 
 さて、十字架の言葉は滅んで行く者にとっては愚かですが、信じる者には神の力なのです。これが今朝のメッセージのエッセンスです。
「信じる」というのは神の憐れみであり、恵みです。あの水野源三は不遇な環境の中で神の恵みに触れ、「主の十字架の救い」に与り、後に「まばたきの詩人」として十字架のキリストを証しする者と変えられたのです。
パウロもキリストに出会ってから180度変わり、イエス・キリストの福音を伝える者になりましたが、彼は、この世の知恵を用いてではなく、主の十字架によって罪が赦され、救われた存在であることを宣べ伝えたのです。

 「十字架の言葉」―それはキリストの生涯それ自身であり、贖いと犠牲です。このお方が成し遂げてくださったすべてが「福音」なのです。彼は十字架のキリスト以外のものを知ろうとはせず、他の一切のものを「塵あくた」と見なしたのです。確かに当時、十字架のキリストはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かなものでした。しかし、信じる者には神の力(デュナミス)となったのです。今もそうなのです。

 ルターは「十字架につけられたキリストの中に本当の神の知恵がある」と言っています。パウロは「この宝を土の器の中に持っている」と述べていますが、この宝とは十字架の福音そのものなのです。 私たちは十字架のキリストを宣べ伝える者として、ここから遣わされていきたいものです。
 亀水松太郎は、監獄にて主イエスと出会って牧師となった人です。恩赦により牢獄から外に出たとき、彼は路上で大胆にキリストを証ししたのです。彼をとおして多くの人々が救いに与ったのです。

  主イエスの十字架の贖いは「完成された(成し遂げられた)」もので、これに何ものも付け加える必要はありません。ただ、感謝と信仰さえあればいいのです。私たちはこの十字架のキリストを宣べ伝えて行きたいと思います。

2012/10/14(日) 「わが魂は神を慕いあえぐ」大嶋博道
 聖日礼拝 詩編42編から
(序 論)
 今日のメッセ−ジの中心となるみ言葉は三度も繰り返されている詩編42編6節、12節43編5節の「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ちめ。・・・・」です。この詩編は、私たちの信仰が「揺らぐ時」に耳を傾ける、聴くに相応しいみ言葉です。
 ここにある「渇く(慕いあえぐ)」とは単に身体的な渇きではなく、魂の強烈な渇き、人間存在の根本的な渇きのことです。鹿が谷川を慕いあえぐのは、水を飲むためだけでなく、鹿自身の体臭を消して外敵から身を守るためと言われています。
 このように私たちも神の霊に満たされて渇きが癒されるだけでなく、この世の汚れ、この世の罪を取り除き、サタ−ンの攻撃から実を守るためにも「聖霊の生ける水の川」に浸りたいものです。

(本 論)
 私たち人間は渇きを覚えて神に求めるように造られています。ですから私たちは神と向かい合って生きる事が求められています。人は渇き、うなだれ、呻く事が多くあります。み言葉が魂に届かない事が多くあります。時には神を讃美出来ない時があります。神のみ顔を仰げない時があります。
 この詩人は魂の故郷エルサレム神殿から遠く離れた異教の地で試練の中に置かれているのでしょうか。
人々から「おまえの神はどこにいるのか」と罵られてうなだれているのでしょう。自らの心の中に、もう一人の自分がそう叫んでいるのかも知れません。

 そんな私たちに心を新たにして主なる「神を待ち望め」と今日のみ言葉は教えています。神を待ち望むとは、
 @徹底的に神に信頼する事を意味します。
 A忍耐をする事を意味します。
 B神がなされる最善を期待する事を意味します。
(まとめ)
 アンドリュー・マーレーの「霊的に衰退する原因は静思の時をなおざりにするからである」との言葉を心に刻み、日々、神のみ心を示していただくために神を待ち望み、主の前に静まりましょう。そうすれば神の前でのみ与えられる聖なる静けさを知る事が出来るようになります。魂の奥底から神を慕い求めましょう。

2012/10/07(日) 「試練の向こうに」大嶋博道
総員礼拝・聖餐式 ヨシュア1:1〜9

(序論)
 人生には時として思い通りにならない事が生じたり、試練に遭う事があります。また、毎日のように思い悩んだり心配事があります。人は多くのストレスを抱えて生きています。
心理学者のスコット・ペックは「人生には困難が伴います。問題のない、苦しみのない人生は考えられません」と、述べているとおりです。これらの事を避けては通れないのです。
すでに、2000年前に主イエスは「あなたがたはこの世では悩みがある」(ヨハネ16:33)と、人生には苦難や試練が伴うことを語っておられます。
 今日学びますヨシュア記には、モーセの後継者ヨシュアが乗り越えなければならない3つの試練が書かれています。
それは、
@「モ−セの死」(一番信頼していた人の死)
A「ヨルダン川を渡る事」(人生で乗り越えなければならない決定的 な出来事)
B「イスラエルの人々に与えられようとしている土地に行く事」(そこにはどんな人が住んでいるか分からない土地である事)でした。

(本論)
 この3つの試練の向こうに何があったのでしょうか。ヨシュアは何を見たのでしょうか。ヨシュアは神の声を聴きました。それは1章3節に「わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」という〜イスラエルの民が40年間待ち続けていた約束の地を必ず与えるという神の声でした。しかもそれ
には「立ちはだかる者も無く、あなたを見放すことも、見捨てることもない」という神の保証が付いていました。
この確かな約束を、私たちは具体的な試練を乗り越えていく神の約束として受け止めたいと思います。試練の向こうに、ヨシュアには神が与えて下さる「祝福の将来」がありました。
 21世紀に生きるあなたにもこのような希望があります。豊かな祝福があります。今日のみ言葉によって、この事を神様は約束していてくださる事を学ぶ事が出来ます。

(まとめ)
 ロ−マ法王ベネディクト16世は「現代社会には荒野がある。しかし、教会は荒野の中の“オアシス”である。神のいのちがここに躍動している(働いている)」と言いました。この神のいのちを信仰によって受け止めたいと思います。私たちが遭遇する試練の向こうには「希望の明日」があるからです。  


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