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最新の絵日記ダイジェスト
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2012/11/25(日) 「偶像を拝まない生き方」畑中康雄勧士
収穫感謝信徒礼拝 出エジプト記32:1〜6

(序論)
先週の研修会では「聖書のみ言葉に従った生活をするための聖書の読み方」という事についての学びをしましたが今日は「偶像を拝まない生き方」について学びます。
皆さんにとって「何が偶像なのか」とい事について問いながら聞いていただければと思います。

(み言葉に学ぶ)
 十戒は律法の基本です。さて、み言葉によるとモ−セがシナイ山からなかなか帰って来ないので民は自分たちを導いてくれる神を作るようにアロンに頼みアロンは首飾りなどの装飾品を集めて
小牛を作りこれを礼拝し神として敬ったのです。
 このように人は不安になると神との約束を忘れて、偶像礼拝と言う大きな過ちを犯す存在です。これは旧約聖書の時代だけではなくて、新約聖書の時代にあっても、また私たちが生きて生活しているこの時代にあっても私たちには偶像礼拝の誘惑が一杯あります。牛の偶像を造ってその偶像を礼拝したイスラエル人、反対に皇帝を偶像として礼拝しなかったが故に迫害された初代教会のクリスチャンたちと、今までにも一神教であるが故に偶像礼拝との戦いがクリスチャンにはありました。
 さて、ここで「内村先生の不敬事件」を学び私たちが日常的に出会う偶像礼拝の誘惑に対して取るべき態度について考えて見たいと思います。

(不敬事件の概要)
 1890年に明治天皇の教育勅語が発布され内村先生が勤務していた学校にも下賜され、その翌年に「教育勅語奉読式」が挙行される事になりました。内村先生は「偶像を拝んではならない」と決心して壇に登り教育勅語の前に進み、そのままくるりと後ろを向いて降りてきました。これを見た生徒たちが問題にして騒ぎ出したちまちにして日本国中の一大問題になりました。この騒ぎの中で内村先生は病気になり、そして職も奪われます。そして奥さまは心労に倒れて天に召されます。この事を通して内村先生が教えたかった事はなにか。
それは
@天皇は神ではない事
A信仰は自由である事
B一般大衆を恐れない事
C真理を護るため
には独りででも立ち上がるべきである事、を自らの行動を通して教えたかったとあります。

(まとめ)
 社会的な地位に、金銭にと造り主である神以外の物に心を向けがちな私たち、世間と迎合し心ならずもこれらの偶像を礼拝している私たちはこの内村先生の武骨な生き方から何を学べばよいのでしょうか。十戒の第1の戒め「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」そして第2の戒め「あなたはいかなる像も造ってはならない」という戒めをどのようにしたら日々の生活の中で守る事が出来ると思われますか。人は神と富とに仕える事は出来ないのです。お祈りしましょう。 

2012/11/18(日) 「祝福される金銭の上手な使い方」 大嶋博道
聖日礼拝 テモテ第一6:17〜21

序 論: 
 お金は物々交換手段、貯蔵手段、支払い手段であり、また、お金はコミュニケーションの手段でもあり、しばしば感謝の代用として使われています。
今日、お金は「豊かさ」の代名詞であり、「幸い」の象徴的なものともなっています。お金は使い方しだいで人を幸せにすると共に、限りなく不幸にします。このことをわきまえながら、金銭の上手な使い方、特にキリスト者として“祝福される”金銭の用い方について考えてみましょう。

聖書はお金(富)について何と言ってるか。
 聖書は「お金(富)」の持つ危険性を明らかにしています。
パウロは「金銭の欲は、すべての悪の根」と述べてお金に取り憑かれることの危険性を明らかにしています。イエス様は「お金持ちが神の国に入るよりもらくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(マタイ19:24)と述べて、神の国の対立概念としての「お金の存在」を語っておられます。
しかし、決して富(お金)そのものに悪性や罪性があると言ってるのでないのです。問題はそれらに対する考え方にあり、活用の仕方にあるのです。

J.ウエスレーの金銭に対する考え方
ウエウレーは金銭それ自体を邪悪なものとは考えず、むしろ金銭を“神のすぐれた賜物”と捉えています。
 
本 論:
ウエスレーは金銭に対して3つの原則をもっていました。
@できるだけ稼ぎなさい―彼は稼げるだけ稼ぎなさい、と奨励しています。ただし、彼はこう制限を加えています。
(1)生命を犠牲にしてまでも、また健康を犠牲にしてまでも金銭を稼いではなりません。
(2)さらに、彼は自分の体だけでなく心を損なうことなしに、出来るだけ稼ぐべきです、と述べています。
(3)神の戒めや国の法律に反するような罪悪的な商売に入ることも、継続することもしてはなりません、と語っています。
(4)自分自身と隣人とのたましいと体を傷つけることなく、健康を損なうことなく不断の勤勉さを もって、神があなたに与えられたすべての理解力を用いて出来るだけ稼ぎなさい

Aできるだけ蓄えなさい―出来る限り稼いだら、クリスチャンの良識の第二の原則は
(1)愚かな欲望、すなわち肉の欲、目の欲を満足させるために、豪華で高価な衣服や不必要な装飾品につぎ込んで浪費してはならない。
(2)暮らし向きの自慢を満足させることに過ぎない支出をすべて削り、生きるにしても死ぬにしても、罪のためにも愚かなことのためにも、自分のためにも子どもたちのためにも、何事にも無駄遣いをやめて出来るだけ蓄えなさい。
(3)子どもたちがあなたの財産を投げ捨てるために、みすみすそれを残してはなりません
Bできるだけ与えなさい―持てるものすべてのものを神に捧げなさい。出し惜しみしてはなりません。
神に属するものは10分の一でも、三分の一でも、半分でも、すべて「神に返しなさい」(マタイ22:21)。
もし、金銭を自分のためにか家族のためにか消費することについて疑問が起こるとしたら、静かにじっくりと自問してください。
(1)私は神の財産管理人として行動しているだろうか?
(2)私はみことばに服従しながら、これを行っているだろうか?どの聖書のみことばで主は私にそのように行うことを要求されているのだろうか?
(3)わたしはこの行動を、この消費を、イエス・キリストを通して神への犠牲として捧げることが出来るだろうか?
ウエスレーは神の賜物としての金銭をいかに自分と他の人のために、すなわち神の栄光のために活用するかということに関心がありました。

まとめ:
わたしたちが生きられるのは、命を賜った神が必要な物をすべて備えていて下さるからです。
朝、眠りの床から起き出てから、夜、再び眠りの床に就くまでの間、今日の一日を生きていく上で必要な物は全て神によって備えられるのです。 (出エジプト記16:13〜15参照)
 ですから、わたしたちはまず、命の源であられる神に心を向けることで、「もし神が今日一日わたしに命を与え、生かして下さるのであれば、今日、生きるのに必要な全ての物は、神が与えて下さるであろう」と信じて生きることができます。祝福をお祈り致します。

2012/11/11(日) 「嵐の中で主が共に」大嶋博道
大人・子ども合同礼拝 マルコ4:35〜41
(はじめに)
 本日は大人・子ども合同礼拝を守ります。教会学校に集う子どもが減少傾向にある昨今、私たちの教会はこのように多くの子どもたちと共に礼拝を守り、7歳以下の子どもの祝福式を執り行う事が出来る事を感謝します。

(序 論) 
テキストによると、イエスは昼間、ガリラヤ湖畔で群衆に教えられ、夕方、弟子たちに「向こう岸(ゲラサ地方)に渡ろう」と言われました。彼らがこぎ出すと、漁師の彼らでさえ危機を感じるほどの想定外の激しい嵐が襲ってきたのです。その時、イエスは艫の方に枕して眠っておられたのです。弟子たちは不安と恐怖の中で叫びながらイエスに助けを求めます。イエスは風をしかり、湖に「静まれ、黙れ」と命じると忽ち風は止み、凪になったのです。

(本 論)
 2000年前にガリラヤの湖で起こったこの出来事を現代に生きる私たちの生活に当てはめ、このテキストから次の2つの事を学びます。
@私たちの「平安」はこのイエスから来るということ。
聖書によるとイエスは嵐の中で眠っておられました。弟子たちは恐れれて、イエスを起こし、助けを求めて叫んだのです。それは激しく怒るように、訴えるように叫んだのかも知れません。
この命がけの、涙の訴えこそが祈りです。嵐の中で平然と眠っておられるイエスの中にこそ神の平安があり、それが神のみ業であり、奇跡なのです。
 実は、イエスが荒れ狂う嵐の中で眠っておられるからこそ大丈夫なのです。イエスご自身は慌てふためいてはおられないのです。そのイエスに全てをお委ねして生きるのが信仰なのです。嵐の中でじっと眠っておられるイエスを信じる事こそが大切な事なのです(ピリピ4章5〜7節)

A人生のハンドルを握っておられるのはイエス・キリストであること。イエスは私たちと運命共同体の中に居られるのです。湖の事をよく知っている弟子たちが舟を操っていたのですが、嵐の中ではその弟子たちなすすべが無かったのです。嵐の中での支配者は主イエスであり、同時に、私たちの人生をコントロールしておられるのも主イエスなのです。私たちの運命を握っておられるのはこのお方なのです。

(まとめ)
 どんな嵐の中にあっても、平安は主イエス・キリストから来るという事、人生のハンドルを握っておられるのは主イエスであることを信仰によって、み言葉によって、祈りによって私たちは確認したいと思います。 
「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平安を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。・・・」(ヨハネ14:27)

2012/11/04(日) 「死を見つめ、おのが日を数えて」大嶋博道
召天者合同記念礼拝 詩編90:1〜17

(序論)
 本日は召天者合同記念礼拝を守ります。この礼拝を守る意義は「この地上を共に歩んだ人を思い起こしつつ」「私たちもこの地上を去って行く時、終わりの時が来る事に思いを巡らす事」です。「メメント・モリ(死を心に刻む)」時なのです。

(本論)
 詩編90篇は祈りの人、神の人モ−セの詩です。イスラエルの国が捕囚の苦しみから解放された頃に作られました。ここからは次の2つの事を学びます。
@1〜6節は「神の永遠と人の儚さ」が書かれています。1節では「主よあなたはわたしたちの宿るところ」と言っています。1人1人はさすらう存在ですがそんな私たちに対して主が言っておられるのは「主は私たちの宿るところ」と言う事です。また3節では「人間を塵に帰すのは神だ」と言っておられます。私たちはやがては神のみもとに帰る存在なのです。

A次に7〜17節は「人の罪と神の恵み」について書かれています。その中心は12節のみ言葉です。人間の命は儚いのでその時が何時であっても、何時、 私たちが天に召されても神のみ前に罪赦された者として謙虚に立てる事が出来るように教えてくださいと語っています。
 主のみ前にへりくだって、主のみ前に謙虚になり悔い改めて私の人生の日を数える事が出来るようにとモ−セは祈っています。

(まとめ)
 13節が今日のみ言葉のまとめになります。ここで「帰って来てください」とは私たちの壊れかかった人生を元のようにしてください、私の人生にあなたが宿ってください」との思いをモ−セは祈りっています。生涯、喜び祝う朝が来ますように(14節)と祈りましょう。そうすれば私たちの働きは確かなものとなります。


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