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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2012/02/26(日) 「7の70倍の愛」 畑中康雄勧士
信徒礼拝 マタイ18:21〜22,26:47〜80

(はじめに)
 レントを迎えて「神様の愛」について学びましょう。
まず、イスカリオテのユダについて、
@ユダは予め裏切りの罪を犯すように定められていたのか?
Aイエスはユダが裏切る事を知っておられて選ばれたのか?
B神様はユダの裏切りを止める事が出来なかったのか?
Cユダは救われる事はないのか?
Dイエスを3度までも知らないと言ったペテロとユダの犯し た裏切りの罪は何処が違うのか?
という5つの疑問を持って昨年と一昨年のレント期間の礼拝でこの事について学びましたので本日は詳しくは触れないでおきます。

(本論)
 神の大きな愛の中にある安らぎ
@私たちも何時いかなる時にどんな罪を犯す事があるか分かりません。その時に神様の大きな愛が私たちに及ぶと考える時に、私たちはどれほど心が安らぐでしょうか。罪を犯した時には悔い改めと神様の赦しを乞えば赦されると思う時に私たちは大きな安らぎを得る事が出来るのです。キリスト教は「愛と赦し」の宗教なのです。

A原罪という罪のもとにある私たちは、イエスの十字架上での「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)との究極の愛の言葉、そして「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」という問いかけに対して「7の70倍まで赦しなさい」(マタイ18:21)と言われる神の愛が私たち罪人を救ってくださるイエス・キリストの大きな愛なのです。

B私たちの心の内には必ず「ユダ」が住んでいるという事を私は自覚しています。イエスを主として受け入れる告白をしても「原罪」のもとに生まれて来た人間の心には必ずユダが潜んでいるのです。ですから罪を犯さずには生きられない私たちは罪を犯してしまったと気づいた時には「7の70倍まで赦す」(完全な赦しの上にさらに完全に=「無限に」の意味)と言ってくださる神様に赦しを乞い、日々、赦された確信をもって新たにされて歩みたいと思います。

(まとめ)
 そのように思い、懺悔をし、祈る時に神様は私たちを赦してくださり「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」(マタイ5:16)ように私たちを用いてくださるのではないかと思います。日々主に赦しを乞いながら主に従って歩みたいと思います。

2012/02/19(日) 「キリストの形が成るまで」大嶋博道牧師
聖日礼拝 ガラテヤ4:19〜20

(序 論)
 「私たちの信仰生活の内にキリストが形づくられる事」これが今日のメッセ−ジの主題です。それはルターが言うように、私たち1人1人が「小さなキリスト」となる事です。それは、具体的にはキリストを担う、キリストの器として証しをする者として用いられる事を言います。
 パウロはガラテヤの教会に「私たちは信仰のみによって救われる」と教えて伝道しました、その信仰が正しく受け継がれていませんでした。(パウロが去ったあと偽教師が間違った教えを伝えた。)ですから、ガラテヤ書はパウロが感情的に(怒りをもって)書いています。
                             (例えば1章6〜7節/3章1節)
それはあなたがたの信仰は何処に行ってしまったのか、キリストの形が崩れてしまったと言う怒りです。ですから19節にあるように「もう一度あなたがたを産もうとして苦しんでいる」とパウロは手紙に書いています。

(本 論)
 キリストが信徒たちの内に形づくられるという事をパウロは願っています。信仰生活にキリストが刻み込まれるようにと願っているのです。私たちクリスチャンの生活には、内面的なものと共に外面的にもキリストが形づくられることが必要なのです。具体的には、
@キリストの十字架の死と復活により私たちの内側に永遠の命の確信が与えられる事が第1の事です。(2章20節)

Aその事によって私たちの魂に平安が与えられ、日々希望と喜びと感謝の生活がなされていく事が第2のことです。(Tテサロニケ5章16〜17節) クリスチャンはどんな状況に立たされても、魂に平安が与えられ、明日への希望を失わないで生きることが出来るのです。
B伝道や愛の生活、証しや奉仕の生活をする事が第三の事です。

(まとめ)
私たちの内に喜びや感謝や平安や希望がないならば、キリストを形づくることはできません。
内面にあるものが、外にあふれ出て、キリストの形を形成するのです。私たちは「土の器」に過ぎませんが、その中にキリストという偉大な「宝」を有しているのです。ですから決して、行き詰まったり、途方に暮れたりすることはないのです。

2012/02/12(日) 「神の賞与を求めて」大嶋博道牧師
 聖日礼拝・聖餐式  フィリピ3:12〜16

(序論)
信仰は決して付属品や装飾品ではなく、また自分の思い通りに処理出来る所有物ではありません。信仰とは私たちの現実であり、私たちが生きているように、信仰も生きているのです。
 では、神様が私たちに与えてくださる「賞与(ブラベイオン)」を得るためにどのような信仰生活〜生き方をしたら良いのか、という事について学びたいと思います。
 今日の中心となるみ言葉は13〜14節です。
パウロは3章12〜13節で自分の信仰を述べています。即ち「まだそれを得ておらず」「完全な者ともなっておらず」「何とか捉えられようと努めている」と言っています。「それ」とは、キリストを知る知識であり、キリストの復活のいのちであり、神の賞与であります。
神の賞与は「ご褒美」「朽ちない冠」とも訳せます。

(本論)
 ではどのようにしたら神からの賞与(ブラベイオン)を得る事が出来るのでしょうか。
(参照み言葉:@コリント9章24〜25節)
(1)その第1の事は「後ろのものを忘れ」るという事です。それは過去に執着しないという事です。私たちは過去にこだわります。しかし、神の賞与を得るためには過去へのこだわり、未練を持たない事です。塩の柱になったロトの妻のよう後ろを振り向かないこと。
私たちは賞をえるために、重荷やからみつく罪をかなぐり捨てて忍耐強く走り抜きたいものです。

(2)第2の事は「前のもの、前に向かってひたすら前進する」事です。
 前に向かってばく進すること。一途に全身を傾けて走ること。それは具体的に、
@聖書のみ言葉に聞き続けると言う事が大切な事なのです。
A「日曜毎の礼拝を通して霊性を深め、さらに深みに漕ぎ出す事です。
Bまた「日々の祈りの中で神のみ心を探る」事です。
Cそして忍耐を以て前進する事が大切です。
D主イエス・キリストから目を離さない生活をする事です。

(まとめ)
 このような信仰生活をとおして、私たちは神様から「朽ちない賞与(ブラベイオン=良きもの)を得る事が出来るのです。日々、このすばらしい祝福を期待して歩みましょう。

2012/02/05(日) 「火をもって答える神」大嶋博道牧師
総員礼拝 列王下18:20〜24

(序論)
「そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、私は主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」とあるように、「私たちには火をもって答える神がおられる」ということが本日のみ言葉の中心です。
エリヤの時代に、真の神に仕える預言者エリヤとバアルやアシェラの偶像の神に仕える850人の偽預言者がカルメル山で、どちらが「真の神」かをめぐって対決することになります。
「火」は聖書では神の臨在、神の力強さ、神の素晴らしい能力を表しています。(例・出エジプト2章3〜5節/出13章22節/申4章12節等々)

(本論)
 結局、偶像に仕える偽預言者たちは、激しく天から火が降るように祈り求めたが、火は降らなかったのです。しかし、神はエリヤの祈りに答えて火を降したのであります。
では、エリヤはどのようにし神を求めたのか。それは
@崩れていた祭壇を建て直した(30節)事が第1のことです。
祭壇を建て直す事の意味は「崩れた神との関係を修復する」事を意味し、「祈りの祭壇を建て直す」事であり、「神に対する生きた信仰を建て直す」事を意味し、さらに「神に対する献身、服
従する」事を意味します。ですから祭壇を建て直し事を先ず最初にしなければならないのです。
仕事も、家庭もすべてはまず、「祭壇を建て直すこと」から始めたいものです。そうすれば、すべてが上手く運んで行くのです。その事をエリヤが行ったのは正しい事でした。

A第2の事は、「主の名を呼び求める」事です。
36節で「主よ」と主の名を呼び求めもとめています。天地創造からまもなく、人間は主の名を呼び求め始めています(創世記4章26節) 私たちは弱さを抱えています。ですから日々、神の名を
呼び求め、神と共に歩いていかなければならないのです。神と出会う事によって人間は弱さを抱えながらも生き続ける事が出来るのです。エリヤが神を呼び求めたように、私たちも日々、祈りの中で神を呼び求めましょう。

(まとめ)
 今週1週間、あなたの信仰生活の祭壇を建て直して欲しいと願います。
そして、「インマヌエル・アーメン」と主の名を呼び求めてください。神は必ずあなたの心に平安を与えてくださいます。


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