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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2012/03/25(日) 「自分の行程を走り終えて」大嶋博道牧師
年度末感謝礼拝 使徒言行録20:17〜24

(序論)
 私は2008年2月の教団総会において教団理事長に選ばれて今日までの4年間その重責を担って来ました。そして4月からは京都西教会を兼牧する事になります。この4年間のお祈りとお支えを感謝すると共にこれから始まる兼牧の上にもお祈りくださいますようにお願いします。
 20章24節が今日のメッセ−ジの中心となるみ言葉です。そして私の今の心境を表しているみ言葉です。目標に向かって前進する、目標を達成するために「生き切る」事は大切な事です。(日野原重明先生の96歳の時の言葉)

 伝道者パウロはイエス・キリストを信じるようになってから「わたしにとって生きるとはキリストである、死ぬことは利益です」という確信のある「人生観」を抱いていました。
(本論)
 パウロはキリストを迫害している時にキリストに捉えられて伝道者になりました。今日のみ言葉はパウロがエフェソの長老たちに「パウロがどういう生き方をしてきたか」という事と「残された自分の人生をどう生きて、どんな心構えで人生を締めくくるか」という事を語っている書簡です。

(1)まずパウロがどんな生き方をして来たかという事では
@謙遜の限り生きてきた、自分を取るに足らない者として主に仕えて生きた来たと言っています。そして次に

A涙を流しながら(19節)主に仕えて来たと言っています。それはキリストゆえの忍耐の涙、憐れみの涙でした。次に

B自分の身にふりかかってきた試練に遭いながらただ、ただ主に仕えて来たと言っています。

(2)次にこれからの人生をどう生きるかという事では、それは自分の決められた人生を、決められた道(行程)を走り通す(24節)という生き方をすると言っています。神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすという生き方が出来れば自分の命すら決して惜しいとは思わない(命を計算しない)という生き方をしたいと言っています。

(まとめ)
 パウロが語っているような生き方、即ち私たちの命を、人生のすべてを、神に全く委ねて生きる生き方をしたいものと思います。        

2012/03/18(日) 「最後の晩餐」畑中康雄勧士
信徒礼拝 マタイ26:26〜30

(はじめに)
 今日のみ言葉によると、全員で食事をしている時に、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂いて弟子たちに与えながら「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と言われました。
それからブドウ酒の入った杯をとり神に感謝の祈りを唱えて「みな、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように多くの人のために流される私の契約の血である…」と言われ、一同は賛美の歌をうたってからオリ−ブ山へ出かけた、とあります。これが「イエスの最後の晩餐」の様子です。

(聖餐について)
 聖餐はキリストの贖いの犠牲を記念するものであり、この礼典を繰り返し行う事はキリストの死が聖餐において思い出される事により、キリストの犠牲が過去のものではなくて現在もそれを自分のものとして経験する事です。ただ、注意しなければならないのは「救いの恵みは聖礼典を守る事によって与えられるのではなく」て、救いの恵みはただ、ただ「イエス・キリストへの信仰」によって与えられるという事を知っていなければなりません。

 私たちの信仰の偉大な先人である「ウエスレ−」はこの「聖餐」という聖礼典を「単なるキリスト者のバッチや証拠ではなくて、それは恵みのしるし、すなわち神のわれわれに対する好意のしるしであり、それによって神は目に見えない形でわれわれの内側に働きかけ、信仰を起こすばかりか、それを強め、確かなものとする。福音の時代にわれわれの主によって定められた聖礼典は二つあり、それは洗礼と聖餐である」と言っています。このように聖礼典は神の恵みの大きな源であり、このしるしを受けるすべての人に目には見えない神の恵みの保証が与えられる神の救いと恵みに与る大切な礼典なのです。
 ウエスレ−はわれわれが恵みに与る手段の順序として「聖書に聴き」「瞑想し」「応答の祈りをし」それを確認する事即ち聖餐は「キリストの体と血の内的な恵みの外的なしるしであり、われわれがその恵みを受け取る手段である」と言っています。

(まとめ)
 洗礼を受けるとわたしたちの信仰はそれで完成したというものではなくて日々悔い改めて主の赦しを請うのですが、神への思いを強くし、神様の恵みをいただきながら更に「信仰の深みにこぎ出す」ためには「キリストの贖いの犠牲により成し遂げられた救いへの応答と私たちの感謝に満ちあふれた応答」として聖餐に与る事が大切なのです。更なる恵みに与るために聖なる聖餐に進んで与りましょう。   

2012/03/11(日) 「偽造の神(Counterfeit God)」 滝谷良一牧師
特別礼拝 出エジプト20:1〜6,ローマ1:24〜25

(序論)
「あなたがたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたがたはいかなる像も造ってはならない」と出エジプト20章3〜4節にあります。
この言葉は私たちに関係の無い言葉ではありません。この言葉は全人類に命じられた神の言葉なのです。私たちは私たちが気づいていない隠れた神がある事を知るべきです。

(本論)
 私たちは「多くの契約に与り、多くの奇跡を経験して来たにも拘わらずモ−セの十戒を守らず、偶像礼拝に走ってしまったイスラエルの民の過ち」から学ばなければなりません。彼らは聖書が語る唯一の神が天地創造の神である事を、自然界を支配される神である事を知らなかったのです。
イスラエルの民がカナンの地に入った瞬間に「バアルの神」に走ったのは彼らの生活を守るためでした。私たちはこのイスラエルの民を非難する事は出来ません。それは私たちも自分の生活や自分の価値観の中に教会や礼拝よりも大切にしている物を沢山持っているからです。
 
 偽造の神とは「神よりも大切なもの、神よりは私の心を支配するもの、神が与えられるものを除こうとす心、私たちの人生の中心を占めそれを失うと生きてはいけないと思うもの、私たちの心を支配して私たちが他の事を忘れてその事にエネルギ−と情熱を注ぎ経済を費やす事を厭わないもの」が即ち偽造の神なのです。私たちは心の内でそのような偽造の神に仕えている事に気づくべきです。
その偽造の神とは 例えば「家族や子ども、職業とか金儲け、人生での成功、名誉、社会的な地位」などです。そしてそれは私たちが気づかない、気づいていないという事も併せて学ぶべき大切な事柄です。私自身がその偽造の神を持っている事に気づいて愕然となりました。

(まとめ)
 しかし神はこのようなイスラエルの民を見捨てられませんでした。顧みられました。
私たちもこの神の憐れみを学び、私たちの聖霊の神に心から悔い改めて私たちの罪のために十字架上で贖ってくださった神に気づき私たちが犯した罪を懺悔して神の憐れみによって生かされ続けたいと思います。私たちの神は赦しの神なのですから。

2012/03/05(月) 「湖をわたる教会」〜嵐の中を共に歩まれるお方 大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 マタイ14:22〜33

(序 論)
 教会は「」に例えられます。それは一つの目標を目指す船路です。新聖歌248番の「人生の海の嵐」にあるように、私たちの人生の海はしばしば「」が吹き荒れて漕ぎ悩むことがあります。どのようにして「向こう岸」に漕ぎ出し、渡って行けばいいのでしょうか?

 今日の聖書の物語によると、
@イエスは群衆を解散され、祈るために山に登られました。
A弟子たちの乗った舟は陸から数キロのところで逆風に遭います。
B夜が明けるころ、イエスは湖を歩いて弟子に近づかれました。
Cそれを見た弟子は「幽霊」かと思い、恐怖のあまり叫び声を上げました。
Dイエスは「安心しなさい。私だ」と、言われました。
Eペテロは水の上を歩いてイエスのところに行こうとしましたが、風と波を見て 沈みかけます
Fそして、イエスが舟に乗り込まれると嵐は静まりました
 教会はこの世の嵐とは無関係に歩んでいるのではありません。教会もキリスト者も「逆風」に遭ってこぎ悩むことがあるのです。神はこのような試練の中で、私たちに「お前は何者なのか?」と問いかけておられるのです。
(本 論) 
 さて、この世の嵐の中で漕ぎ悩む私たちはどのようにして平安を得ることが出来るのでしょうか。今日のテキストから学びましょう。
@主は私たちのために夜を徹して祈っていてくださいます
 主イエスは祈るために山に登られました。主が私たちのために祈っておられる、そこに救いがあるのです。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」
(ルカ22:32)とあるとおりです。
Aイエスは嵐のまっただ中にいる私たちに臨在していてくださるのです。
 救いとはキリストの臨在に生きることです。主は十字架の贖いによって私たちの罪を赦し、日々、私たちと共に歩んで下さる、ここに真の救いがあるのです。
B主は嵐を静めてくだるお方なのです。
 主は「静まれ、黙れ」と言って嵐と波を静めて下さいます。すばらしい奇跡のみ業を行われる偉大なお方です。この事を信じて生きる時に救いが与えられるのです。
(まとめ)
 嵐を静めるお方はイエスです。この事を心に留めておきたいと思います。私たちの教会は今、湖に浮かんでいます。そして、私たちは「向こう岸」に渡りつつあるのです。主が共におられる
のですから、勇気をもってこぎ出しましょう。
「呼吸するたびに霊の息が私の外へ出て行く時には、私の「同伴者キリスト」となってくださる
のです。そして外から内に息が入る時には「内住のキリスト」となられるのです。(畑野忍先生)


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