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2012/03/18(日)
「最後の晩餐」畑中康雄勧士
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信徒礼拝 マタイ26:26〜30 (はじめに) 今日のみ言葉によると、全員で食事をしている時に、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂いて弟子たちに与えながら「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と言われました。 それからブドウ酒の入った杯をとり神に感謝の祈りを唱えて「みな、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように多くの人のために流される私の契約の血である…」と言われ、一同は賛美の歌をうたってからオリ−ブ山へ出かけた、とあります。これが「イエスの最後の晩餐」の様子です。
(聖餐について) 聖餐はキリストの贖いの犠牲を記念するものであり、この礼典を繰り返し行う事はキリストの死が聖餐において思い出される事により、キリストの犠牲が過去のものではなくて現在もそれを自分のものとして経験する事です。ただ、注意しなければならないのは「救いの恵みは聖礼典を守る事によって与えられるのではなく」て、救いの恵みはただ、ただ「イエス・キリストへの信仰」によって与えられるという事を知っていなければなりません。
私たちの信仰の偉大な先人である「ウエスレ−」はこの「聖餐」という聖礼典を「単なるキリスト者のバッチや証拠ではなくて、それは恵みのしるし、すなわち神のわれわれに対する好意のしるしであり、それによって神は目に見えない形でわれわれの内側に働きかけ、信仰を起こすばかりか、それを強め、確かなものとする。福音の時代にわれわれの主によって定められた聖礼典は二つあり、それは洗礼と聖餐である」と言っています。このように聖礼典は神の恵みの大きな源であり、このしるしを受けるすべての人に目には見えない神の恵みの保証が与えられる神の救いと恵みに与る大切な礼典なのです。 ウエスレ−はわれわれが恵みに与る手段の順序として「聖書に聴き」「瞑想し」「応答の祈りをし」それを確認する事即ち聖餐は「キリストの体と血の内的な恵みの外的なしるしであり、われわれがその恵みを受け取る手段である」と言っています。
(まとめ) 洗礼を受けるとわたしたちの信仰はそれで完成したというものではなくて日々悔い改めて主の赦しを請うのですが、神への思いを強くし、神様の恵みをいただきながら更に「信仰の深みにこぎ出す」ためには「キリストの贖いの犠牲により成し遂げられた救いへの応答と私たちの感謝に満ちあふれた応答」として聖餐に与る事が大切なのです。更なる恵みに与るために聖なる聖餐に進んで与りましょう。
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