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最新の絵日記ダイジェスト
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2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2012/04/29(日) 「今の時をどう生きるか」大嶋博道
 フレンズサンデー礼拝 コヘレト3:1〜11

(はじめに)
 私は「時」という言葉に深い関心があります。今朝のテ−マはこの「時」をどう生きるか、という事にありますが、「時」に関して幾つかの基本的な前提を述べて共通の理解をしておきたいと思います。
@「時」は全ての人に平等に与えられているという事
A「時」には限界があるという事。決して永遠ではない。
B「時」は常に変化しているという事(実は、変化しているのは時という制限の中で生きてる私なのです。)
C「時」は用い方によってチャンス(好都合)にもアクシデント(不都合=事故・事件)にもなるという事
D「時」を支配しておられるのは神様である事
 詩編31編15節には「私の時は神のみ手の中にある
(My times are in Your Hands.)とあります。時ほど不思議なものはなく、時は自分で自由にコントロ−ル出来ないものなのです。人は自分が生まれる時や死ぬ時を自分で定めることが出来ないのです。自分のことに関わる大切なことではありますが、自分で決めることさえ出来ないのです。「時」は誰もコントロ−ル(支配)出来ません。

(本論)
 今日のみ言葉の中心は11節にあります。全ての事には最も相応しい時宜(season)があり、全て神のなさるわざは、その時にかなって美しい(ヤーフェー)のです。今朝のみ言葉から次の2つの事を学びましょう。

@私たちの生活には神が予め定められたカイロスの時があるという事が第1の事です。出来事には偶然はありません。人間の偶然は、実は神の必然です。神が定められた必然の時があるのです。前述のとおり、私たちの「時」は神のみ手に握られていることを知らなければなりません。(詩編31・15〜16節/特に口語訳が分かりやすい)

A神は全てをその時に適って美しく装ってくださるという事が第2の事です。神の目から見て一番ふさわしいと思われる事を神様は私たちに備えてくださるのです。私たちにとっては理不尽な苦難や試練や不幸であっても、その背後には最善を成してくださる神のみ手が働いており、それらをとおして、私たちの人生を意味あるもの、有意義なものに変えて下さるのです。

(まとめ)
何事をなすにも時があります。時は人間を超えた大自然の力なのです。暖かくならなければ桜は咲きません。そして冬が来れば春は近いのです。そして桜は静かに、しかし確実に春の到来を待つ」と、松下幸之助氏は言っています。  

2012/04/22(日) 「豊かに用いてくださる神」畑中康雄勧士
F.サンデー信徒礼拝 マタイ14:13〜21

(はじめに)
キリストの奇跡物語は福音書に36も記録されていますが4つの福音書全てに書かれているのはこの奇跡物語だけです。それだけこの物語が人々に印象深い奇跡物語であったという事が出来ます。この物語から主は私たちを豊かに用いてくださるという事を学びます。

(本 論)
 群衆が空腹になった時に弟子たちに出来た事は「彼らを解散させる」事でした。弟子たちには食べ物もお金もありませんでした。何か困難に出会った時、私たちも同じような事を経験します。困難に出会った時に私たちは「責任を転嫁」したり「直面している事柄から逃げよう」としたり「何もしないで先延ばし」
をしようとしたりはしないでしょうか。 

 しかし、イエス解散させる以外にはどうしたら良いかわからないでいる弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられます。これは群衆を救うためには先ず「あなたがた自身の持ち物を用いなさい」という事を示唆した言葉です。先ず自分の持ち物を用いて行動を起こす事の大切さを教えられています。
 この問いかけに対して弟子は「パン5つと魚2匹」ありますと答えます。これは「こんなに大勢の群衆にこんな少しの物で一体何の役に立つのでしょうか」と言う問いかけです。このような言葉で、このような考えで、私たちは今までに「何事でも始める前から十分なものはありません」と考えてしまい、どれ程多くの能力や資産を浪費し、出来る事をしないで来た事でしょうか。

(まとめ)
 パンがどのようにして増えたのかは説明されていません。それは奇跡の業でした。この奇跡の業は形を変えて繰り返し、繰り返し起こされる奇跡なのです。私たちが必要とする物がなんであれ、また私たちの周囲の状況がどんなに悪い状況の中にあっても「与えられているものに感謝して、それを用いるならば神様が力を与えてくださり、必要とするものを、いいえ、それ以上のものを与えてくださる」という事を、「神様はそれを豊かに用いてくださり必要を満たしてくださる」という事をこの奇跡物語は教えています。
 私たちもこのように自分自身を、自分の人生を、自分のタラントを、自分の持ち物を主が豊かに用いてくださるように祈り、期待して行動を起こしていきたいものと願います。

2012/04/15(日) 「ガリラヤ湖畔からの再出発」大嶋博道牧師
聖日礼拝 ヨハネ21:15〜19

序 論:
 今朝のメッセージのテーマは「再出発」ということです。
人が「再出発」するということは、改めてもう一度やり直すこと、心を入れ替えて本来の場所に立つことを意味します。再出発の背景には「失敗」とか「間違い」すなわち途中での「挫折」の
体験があるわけです。

 まず、イエスの中心的な弟子、ペトロの失敗を見ておきましょう。
@十字架を直前にしたイエスのゲッセマネの園での「御心」を求める切なる祈りの時に眠ってしまった。(マルコ14:32〜42)
Aイエスがユダヤ当局に捕らえられた時に、イエスを見捨てて逃げてしまった。(同14:50)
Bイエスが大祭司の庭でユダヤのサンヘドリンから裁判を受けている時、ペトロは3度もイエスを否認した。(同14:66〜72)
ペトロの決定的な罪は「イエスを3度も(完全に)否認したこと」です。
 そのペトロが後に「再出発の恵み」に与ったのです。今朝はその秘訣をヨハネ21章から学びたいと思います。

本 論:
(1)主イエスとの交わりの回復
 イエスの十字架の死と復活後、彼らは故郷のガリラヤに戻り、かつての「漁師」の仕事を始めます。ガリラヤ湖畔で、彼らは復活のイエスに再会し、イエスから「子たちよ、何か食べ物があるか」と語りかけられ、イエスの用意した食事を共に食することによってイエスとの交わりを回復していきます。

(2)再出発を可能にさせるのは「新しい使命」を与えられること
 イエスとの食事は「再出発」のために極めて重要なことですが、それ以上に「わたしを愛しているか」という「愛の確認」は再出発の最もふさわしい問いかけの言葉です。当初、ペトロはイエスの「全存在を投げ出してわたしに従って来てくれるか?(アガパス メ)」という問いかけに躊躇して「はい、お慕いしています。(フィロー セ)」としか答えられなかった。3度目にイエスは「慕ってくれるか」と尋ねたとき、ペトロはいたたまれない気持ちで「主よ、あなたはわたしのことを何もかもご存じです」と
言わざるを得なかったのです。しかし、このやりとりが、やがてペトロを命がけの使命に導き、弟子としての再出発の原動力となったのです。
ペトロの使命は、良き羊飼いであられるイエスに代わり「羊を飼うこと」(イエスを信じる群れをケアすること)だったのです。

まとめ:
 伝説によると、ペトロはネロの迫害の中(AD64年頃)、ローマで逆さ磔になって殉教の死を遂げたと言われています。彼を偉大な「羊飼い(使徒)」にしたのは、ガリラヤ湖畔でのイエスとの交わりの回復と新しい使命(Mission)を与えられたことだったのです。さあ、私たちもガリラヤ湖畔から出発しましょう。

2012/04/08(日) 「復活〜新しい命に生きる」大嶋博道
イースター記念礼拝 エゼキエル37:1〜14
(序論)
 イ−スタ−はあなたが新しく造り変えられる時です。聖書によると@日曜日の早朝にマリヤと他の女性たちがイエスの遺体に香油を塗るために墓を訪れA墓に行くと石が取り除かれておりBイエスの遺体はなく(空虚な墓)C白い衣を着た若者がおり、「イエスは復活されてここにはおられない」と告げたDそしてマリヤたちはこの事を人々に告げたがEこの事を聞いた弟子たちは「戯言」と思い、信じなかった、とあります。
 パウロは「イエスは私たちの罪のために十字架に架かられ「葬られ」「三日目に死人の中から復活し」・・・そして「月足らずに生まれたような自分にも現れてくださった」と述べています。(コリント第一15:3〜8参照)もしキリストの復活がなければ私たちの信仰は無駄ですし、そして私たちの宣教の業も無駄であると言えます。

(本論)
 私たちは思いがけず人生の途上で夢が破れたり、期待が裏切られる事があります。希望が叶えられなかったことによる悲しみや焦りや悔しさを経験することがあります。今から2,500年以上前の預言者エゼキエルの時代にも私たちと同じような経験をした人々がいます。
 神の霊がエゼキエルに臨み、彼は「枯れた骨」に等しい捕囚の民のところに遣わされ、預言をします。神は枯れた骨に筋を置き、皮膚で覆い、その中に霊を吹き込んで生きた人間に回復させる、というのです。
 生きる意味を失った捕囚の民に神は「霊の息」を吹き込む事によりその人を生き返らせる事がお出来になります。
私たちは枯れた骨となっていないでしょうか。喜びや感謝が無くなって不平不満の毎日を過ごしてはいないでしょうか。でもそれが人間なのです。しかし、こんな私たちにも神の霊が吹き込まれる人は生きるのです。創世記2章7節には土の塵で神は人を造り、命の息を吹き込まれると人は生きる者となったとあります。

(まとめ)
 鈴木正久先生はガンを患い、命のリミットの宣告を受けました。「明日」がないと知らされた人には「今日がないのです。ただ、神に祈り、委ねるしかないのです。神は祈りに応え、平安を与え、支えてくださるのです。苦しさにもがく私たちを支えてくださるのは「復活」のイエスなのです。そこに天国の希望があるのです。
 イ−スタ−は私たちの弱さを清算する日です。身体的、精神的、社会的、霊的弱さを。復活の主は私たちの弱さを清算してくださるのです。イースターの出来事は私たちの明日を喜びに、希望に変えてくださることを確信しましょう。

2012/04/01(日) 「主は子ろばに乗って」大嶋博道
新年度受難週礼拝 マタイ21:1〜11

序 論
本日は教会歴では「棕櫚の聖日」〜受難週の始まりの日です。イエスのエルサレム入場の記事は四福音書全てに記録されており、それだけ大切な出来事であると言えます。イエスの公生涯でのクライマックスの時であります。

本論
イエスが子ろばに乗って入場される〜「主がお入り用なのです」とのみ言葉は、預言者を通して言われていた事が実現されるための出来事でした。そして人々は歓喜してこれを迎え入れました。今日はこの出来事から次の2つの事を学びます。

(1)イエスは何故「親ろば」ではなくて「子ろば」に乗って入場されたのかと言う事が第一の事です。
@マタイは旧約聖書の預言を大切にしていました。(ゼカリヤ書9章9節参照)この入城物語は旧約聖書で預言されている通りの事が起こりました。預言の成就でした。そして仕える僕としての聖なるお働きをされる姿がここにあります。
Aロバは飼い主に従順で、そして当時の人々には無くてはならない動物でした。彼らの日常生活を支えてきました。
Bイエスは平和を告げる目的でエルサレムに入場されました。この事は平和を打ち立てるという象徴的な事です。子ろばはまだ一度も人を乗せた事がない汚れのない存在でした。

(2)次に「私たちは主をお乗せする子ろば」であるという事が第2の事です。
@私たちは主をお乗せする子ろばなのです。子ろばにイエスは乗って入場されました。「主の用なり」と私たちも招かれています。主がお入り用なのです。
A子ろばとは貧しさ、庶民的な存在の象徴です。私たちは主をお乗せするとヨタヨタとしてしまう弱い者かも知れませんがそんな私たちを主は用いてくださるのです。そして私たちは「主の用なり」という事でさまざまなご奉仕をさせていただくのです。

まとめ
この小さな私を主が必要として用いてくださる事に気づき、主の尊いご用のために私を生かしてくださり、主のご用のために用いてくださるその「主の用」に私たちは励むのです。人を乗せた事のないろばのように私たちがまだ経験していない不安な事に立ち向かう時にも主のお招きに応じて従っていきたいと思います。


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