ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2012年6月
前の月 次の月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

直接移動: 20163 月  20153 1 月  201412 11 10 9 8 7 月  20139 8 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 月 

2012/06/24(日) 「安息年とヨベルの年」畑中康雄勧士
 F.サンデー信徒礼拝 レビ記25:1〜12
(ユーチューブでメッセージが聞けます。「大嶋博道」で検索を)

(安息年とヨベルの年)
 安息年とヨベルの年には一定の期間毎に債務及び労役から人々を解放し階級的、社会的地位、不均衡を修正し貧富の差を解消する狙いがあり、次のような律法でした。
@「安息の年」〜7周年目の安息の年には農地を休耕し、その自然の恵みである穀物及び果実は共有のものとして全ての人々が食べる事を許される。
A「ヨベルの年」〜安息の年の考え方が延長されて50年毎に守られたもので現状回復を理想とし、すべての売却した物の所有権を元の所有者に取り戻す事を規定していました。元の所有者に帰るとは結局は元々の所有者である神にあるという事を意味します。

(私たちとの関係は?)
 この事と私たちとはどんな関係があるのでしょうか。レビ記25章10節には「あなたがたはおのおの先祖伝来の所有地に帰り家族のもとに帰る」とあります。それでは「本来の居場所に帰る」ためには何が必要なのでしょうか?それは「和解」です。
@第1に「自分自身との和解」です。自分自身の中にある弱さ等と向き合い受け入れて自分自身を神様にお委ねする時に私たちは自分自身と和解する事が出来、心の平安が与えられます。
A第2に「家族や共同体との和解」です。家族や共同体は私たちの癒しと安息の場でこの和解が平安を得る第2の事です。
B第3に「隣人との和解」です。ヨベルの年について書かれている25章13節以下はその大半が隣人との関係の律法です。第3の事は隣人との和解です。
C4番目には「自然との和解」です。安息年とかヨベルの年の戒めら「安息をその地に与えなさい」とあるように土地に休みを与える「自然との和解」が第4の事です。

(新しい歩み方を求めて)
 この道筋は主なる神が私たちに示してくださった私たちの解放の道筋です。人と神との和解の、私たちの解放への道筋です。この「神との和解」(参照:Uコリント5章17〜20節)こそが私たちを癒し、安息と希望が与えられる救いです。私たちにとって天国の回復とは「キリストご自身という大きな代価」を支払って買い戻してくださった「イエスの十字架」を信じる事にあるのです。敵対関係に陥ってしまった人間と神との関係を修復し友好関係を回復するのが神との和解なのです。

 キリストの十字架の贖いにより日々私たちの罪をゼロにリセットしてくださる無限の神様の賜に感謝して全てを造り主である神様に一旦お返えしする事の大切さに気づき、共に生きるという事に気づき、そして神様から栄光をお受け出来るように主のみ旨に従って生きていけるように願いつつ新たな歩みを始めたいと願います。    

2012/06/17(日) 「しかし、勇気を出しなさい」大嶋博道牧師
聖日礼拝 ヨハネ16:25〜33
(ユーチューブでメッセージが聞けます。「大嶋博道」で検索を)

(序論)
 今日の中心となる33節はイエスが十字架に架かられる直前に弟子たちに語られた告別の言葉で(13章以降)「あなたがたはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。(なぜなら)わたしは既に世に勝っている」の3つから成っています。」特に「しかし、勇気を出しなさい」とのお言葉を中心に次のことを共に学びたいと思います。

(本論)
 @ここで私たちに語られているイエス様の言葉の意味は、私たちにはこの世で苦難があると言う事、苦労や悩みと共に「圧迫」「生活を押しつぶす行き詰まり」があると言うのがその第1の事です。ジョンウエスレーは「思い煩う事は魂の病気であり、神に対する罪である」と述べています。しかし、私たちの人生には確かに私たちを苦しめる「苦難」が存在するのです。

Aこのような「圧迫」「生活の行き詰まり」等を持つ私たちに、イエスは「しかし勇気を出しなさい」と言われます。勇気を出すとは、ヨシュア記1章6〜7節にもあるように「強く、大いに雄々しくあれ」と言う事です。「勇気を出す」「元気でいなさい」「しっかりしなさい」「安心しなさい」と言う意味もあります。「勇気を出しなさい」と言う言葉は「神が人に求めておられる命令なの」です。

 B何故なら、「私は既に世に勝っている」と言われるイエスは確かに既に世の勝利者であるからです。「勝つか、敗れるか」と二分した時にイエスはこの世で勝利者となられたのです。だからイエスは「勇気を出しなさい」と言われるのです。ではどのような意味でイエスは勝利者なのでしょうか。
それは
@イエスは暗闇に打ち勝たれた勝利者です。暗闇を明るく照らす光としての勝利者がイエス様です。
Aイエスは罪を征服する勝利者です。罪を許し、罪を征服される方がイエス様です。
B死の力を滅ぼす事がお出来になった勝利者がイエス様です。
C地獄を完全に征服する事がお出来になった勝利者がイエス様です。
Dそして最後に、イエス様は「新しい命をもたらす勝利者」でした。 洗礼を通して、メッセ−ジを通して私たちに勝利を与えてくださるのがイエス様なのです。

(まとめ)
 「チャンピオン」とは私に代わって戦ってくれる人を言います。イエス・キリスト様は私たちのチャンピオンです。私に代わって戦ってくださる「命のチャンピオンがイエス・キリスト様」なのです。完全な勝利者イエス様に感謝します。このお方が共なる時、私たちは元気に生きることが出来るのです。

2012/06/10(日) 「だれが一番偉いのか〜ミクロな者こそ神の国に」大嶋博道
 花の日大人・子ども合同礼拝 ルカ9:46〜48
(ユーチューブでメッセージが聞けます。「大嶋博道」で検索を)

(序論)
 イエス様に従った弟子たちは、「自分たちの中で誰が一番偉いのか」、ということに関心があり、しばしば議論を繰り返していたようです。この事は他の聖書の箇所(ルカ22:24〜26)にも出てきます。そこでは偉くなりたい者は「仕える者」になりなさいとイエス様は教えられています。また「最も小さな者」になりなさいとも教えられています。
「最も小さい者」とは「ミクロな者」という事であるといえます。誇るべき何も持たない者が最も小さな者であり「心からへりくだって仕える事が出来る者が最も小さい者」であるとイエス様は言われます。それは心から神様に委ねて生きている人の事です。神の国、神が支配される領域を受け入れる人が最も小さい者であるとイエスは言われているのです。

(本論)
今日のみ言葉によると、イエスは一番偉い者を説明するために小さな子ども(幼児・乳飲み子)の手を取って自分の側に立たせて「私の名のためにこの子どもを受け入れる者は私を受け入れる者です」と言われました。この小さな子どもの何が天国に譬えられるのでしょうか。それは
@無条件で信頼する心   Aきわめて素直な心
B委ねる心    C何も疑わずに依存する心
を持っているのが幼子であるからです。
2つの事で子どもは大人に勝っています。その第1の事は「謙虚さと無力さ」であり
、第2の事は「自分を愛してくれる者に全幅の信頼を寄せる」という事です。

(まとめ)
私たちは心から神を信じて委ねて生きる時に救われます。神の国は「私たちが地上を去って行く所」です。そしてまた、「今、私たちがいる所、神様が支配されているこの所」であると言う事が出来ます。神の祝福が満ちあふれている所を神の国と言う事が出来ます。
そこに入る事が出来る者は
@謙遜さを身につけている
A互いに忍耐し、赦し合う事が出来る
B愛を身につける
Cキリストの平和が心を支配している
D何時も感謝している
E聖書のみことばがいつも心に宿っている
 このような人が、このような生き方をする人が「最も小さな者〜ミクロな者」であり「神に受け入れられる生き方をしている人」であるという事が出来るのです。

2012/06/03(日) 「豊かな人生を求めて」大嶋博道牧師
 特別伝道礼拝 ヨハネ15:1〜5,11〜17

(序論)
 誰もが「しあわせ」を求めています。
インドでは「しあわせ」を「Good Condition(良い状態)」と定義するそうです。一般的には、豊かな人生のためには「健康である事」「お金や物がある事」「社会的ステータス(地位)があり、安定している事」「人間関係がスムーズであること」さらに、「姿や形が麗しいこと」などが条件として考えられます。
しかしこれらのものは今は与えられていても永続するものではあ
りません。常に変化する不安定なものです。私たちの生活様式は時代と共に移り変わっていきます。
 「Repacking your Bags」(人生に必要な荷物、いらない荷物)の本にあるように、貴方は人生に必要で無い物を持っていませんか。今一度人生のカバンを整理したいものです。そしてシンプルな人生を送りましょう。これが豊かな人生の第一歩です。

(本論)
 聖書のルカ12章13〜21節には愚かな人生を送った人の物語があります。豊かな人生のために豊作で得た穀物をたくわえる為の大きな倉を建てようとします。明日の命が分からないのに…この人には3つの誤りがあります。それは
@自分が人生の主人公だと思っている事。豊作のためには自然界の惠みや共に働く仲間が必要と言う事を自覚していません。
Aこの人には「喜び」が無く、喜びを分かち合うパ−トナ−がいません。そして
Bこの人は自分の命には限りがある事を覚えていません。私たちは生きているのではなくて生かされているのです。この人は人生には終わりがある事を自覚していない「愚か者」でした。
聖書が教える豊かな人生とは神との関係の中で生まれます。目に見えるモノは一時的ですが、目には見えないもの(愛・喜び・感謝・平安・優しさなど)は永続性があり、そこにこそ魂の喜びと希望があります。

今朝のテキストから二つのことを述べてまとめとさせていただきます。
第1の事は「イエスに繋がって生きる」という事です。(5節)それは信仰によってイエスと共に生きると言うことです。神の愛の内とどまる(メノー)ことです。そして
第2の事は「互いに愛し合う」と言う事です。(17節)ここで使われている「愛」はキリストの愛“アガペ−”即ち人のために痛みや犠牲を引き受けると言う事です。

(まとめ)
 具体的な生き方は、
信仰を生活の土台として構築する事」
目標のある生き方をする事」
「良い人間関係を築く事」
「喜びや悲しみを分かち合えるパ−トナ−を持つ事
「生活の中に安らぎがある事」
集中出来る仕事や趣味がある事」
「心身の健康、魂の健康が保たれる事」そして
神に委ねて生きる事」これが本当に豊かな(幸いな)人生のために必要な事なのです。
あなたは今、幸せですか?祝福をお祈り致します。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.