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2012/07/29(日) 私の信仰告白」畑中康雄勧士
「信徒礼拝」 コリント第一15:20〜22 

(私の信仰告白」)
 私とキリスト教の出会いは1960年にラジオ関西の「キリストへの時間」を聞いた事から始まりました。同放送の紹介により聖書通信講座で6ヶ月にわたって「イエス・キリストの生涯」「キリスト教の基本原理」「キリスト者の生活」「新 約緒論」「旧約聖書論」「キリスト教会の歩んだ道」を学び、以後「聖書研究の友」という雑誌によって聖書を学びました。そしてお手元にお配りしている「信仰告白」を教会員の前で朗読し信仰を告白しました。

(復活の信仰)
 私たちは礼拝の中で信仰告白をしています。この信仰告白をする時に何の抵抗もないでしょうか。ご自身が天に召されたらよみがえると信じて告白していますか。キリストの復活が事実であるという事の鍵となるみ言葉はTコリント15章です。ここではパウロが何故キリストの復活を信じる事が大切かという事を次のように語っています。

@もしキリストの復活がなかったら私たちも復活しない事になる。(Tコ リント15章12〜13節)
Aもし、キリストの復活がなかったら私たちの信仰はむなしく、私たちは今なお罪の中にある、私たちは全ての人の中で最も惨めな者となる。(Tコリント15章16〜19節)

 (今日のみ言葉に学ぶ)
イエスの復活はキリストの死が私たちの罪の贖いの代価として神に受け入れられたという事の証明であり、キリストが復活されなかったとしたら私たちは罪が赦される事はない事になります。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Tコリント15章20節)キリストは死者の中から甦られたのです。キリストを信じる者は全て、キ
リストが復活されたように永遠の命の内に生かされるのです。(Tコリント15章22節)キリストの復活はキリストが死に打ち勝たれた証明であり、私たちに罪に勝利して生きていける事が備えられている事を証明しています(15章24〜25節)

(まとめ)
 私は、約50年前にみ言葉によって神を信じ、イエス・キリストを信じるようになりました。
キリストが十字架上で天に召されそして復活されて今も私たちと共に生きていてくださる事を信じる事が出来た時に洗礼を受ける決心をしたのは約50年前の私の身に起こった事実です。復活の主なる神さまに感謝します。 

2012/07/22(日) 「あなたの荷を主に委ねよ」大嶋博道
フレンズサンデー礼拝 マタイ11:25〜29

序 論:
二つの前提をお伝えします。
@イエス・キリストは、私たちの人生の重荷を引き受けて下さる主である。(11:28)
Aイエス・キリストは、私たちと共に人生を歩み、導いて下さる主である。( 11:29〜30)
 今朝のテキストは、マタイだけが言及した「聖書中、最も美しい招き」と言われる箇所です。
まず、私たちの「重荷」とは何なのかを考えましょう。
 徳川家康は「人の一生は重き荷を負うて遠き路を行くが如し」と言っています。天下を取った彼の心には絶えざる重荷があり、平安がなかったことを示しています。300年前の徳川家康だけでなく、多忙で、煩雑な現代を生きる私たちにも、たくさんの重荷があります。
(1)経済的重荷(2)家族の諸問題の重荷(3))社会的な重荷、特に(4)人間の根本的な重荷としての「罪」、さらに使命や責任などもすべて私たちの重荷と言えるものです。

本 論:
 さて、二つの前提を本論で取り扱いたいと思います。
(1)私たちには「重荷を引き受けてくださるお方がある」ということ。  
「疲れた者(労苦している者)」と「背負いきれない荷を世話されている者」が、イエス・キリストに招かれています。「あなたの疲労困憊を休ませてあげよう」と。
このような呼びかけは聖書の何カ所かに出て来ます
@詩編55:23Aイザヤ55:1B詩編37:4Cペトロ第一5:7
注目すべきこと
※疲れた者や重荷を負う者を招かれるお方は、「重荷をすべて取り除いてあげよう」とは言ってません。 「休ませてあげよう」「支えて下さる」「願いをかなえてくださる」「心にかけてくださる」と記されています。
私たちの労苦(疲れ)や背負いきれない重荷を知っていて下さる。心にかけていてくださる、共に心配し、支えて下さる、ということなのです。

(2)主は共に人生を歩み、導いてくださるお方である。
 大事なことは、招いて下さったお方は、労苦し、重荷を負って生活している私たちに休息を与えて下さること。そして、イエスの元にやって来た者だけが、どうでもいいような重荷から解放され、真に背負うべき重荷をイエスと共に担うことが出来るということです。(イエスは私たちと軛を共にしてくださる。)私たちが背負っている重荷をイエス・キリストと共に背負うときに、「魂に平安が与えられ」「たちの背負っている荷物が軽くなる」ということなのです。

まとめ:
「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3〜4)
マーガレット・F・パワーズの「Foot Pronts」を読んでまとめと致します。

2012/07/15(日) 「みことば〜密のように甘く」 大嶋博道
(序論)
 エゼキエルの召命―南王国ユダがバビロンに捕囚となって5年、ケバル川の河畔でエゼキエルが神から預言者の召しを受けた。彼は神から「巻物」を与えられ、口を開いて食べるように命じられた。そこには「哀歌(悲しみ)」と「呻き(嘆き)」と「嘆き(災い)」の言葉が記されていた。これは、イスラエルがこれから先、味わわなければならない民族の悲劇と同時に、神ご自身の悲しみと嘆きと呻きの表現であった。

 「巻物」を食べるとは― 神が命じた巻物を胃袋に入れ、腹を満たすとは、全存在をもってみことばを受け入れること、すなわち、神の審判の言葉を魂の奥深いところに受け入れ、預言者として召された全生涯の中で、これを繰り返し「反逆の民」に語り続けることを意味する。
「巻物」は密のように口に甘いとは―本来なら、神の厳しい審判の言葉が記されている巻物は「胆汁のように苦い」はずである。しかし、エゼキエルは、神の審判の背後に、神の真実な愛(ヘセド)があることを確信していた。
神は反逆の民であるイスラエルを滅ぼすためでなく、救うために裁きをされる。だから良薬のように口に苦いが、その奥深いところには「甘さ」が隠されていることを知っていたのである。

(本論)
 私たちの信仰生活において、「みことば」が密のように甘いというのはどのようなことなのか?
(1)みことばは私たちの「明日の生活」を変えていく力である。
 ルターやカルヴァンが大切にした“ビバ・ボックス(生命の言葉)” は信仰生活に大きな影響力を与えている。例えば「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)というイエスの言葉はなかなか実践できるものではない。クリスチャンの生活の中に重くのしかかってくる言葉である。一生に一度かもしれないが、その言葉をかみ締めておれば必ず実践する日が来るかも知れないのである。(「塩狩峠」の長野政雄氏の事例) 確かに、みことばは私たちの明日を、将来を大きく変える力である。そう言う意味においてみことばは密のように甘いのである。

(2)みことばは、私たちの道の光、歩みを照らす灯火である。
 詩編119:1-5に「あなたの御言葉は、私の道の光、わたしの歩みを照らす灯」と記されている。この世は光を必要とするほど「暗闇」なのだ。私たちは衣食住のことで、健康のことで、仕事や学
校のことで、そして複雑な人間関係などでしばしば思い悩み、時には落ちこんだり挫折したりする。
 そのような私たちの足元を照らす灯火(ランプ)がみことばであり、さらにずっと将来を照らす光がみことばである。ロゴスであるイエスご自身が「暗闇を照らすまことの光」としてこの世に来られ、今も私たちと共におられるのである。

(3)みことばを伝える群れになろう。
 みことばは密のように甘いので、自分一人で食べ続ければいいのだが、神は私たちが神のパートナーになることを求めておられる。エゼキエルは「イスラエルの家に行き、語りなさい」と何度も命じられた。私たちクリスチャンの使命は「神のミッション(Missio Dei)に参与することである。宣教は神のみ業、私たちは神の働きに参加するだけでいいのだ。さあ、これから勇気をもって、家族に、知人に、近隣に「密のように甘い」みことばを宣べ伝えたいものである。

2012/07/08(日) 「今、行きなさい(アター・レカー)」大嶋博道牧師
伝道献身者奨励礼拝 出エジプト3:1〜12
(ユーチューブでメッセージが聞けます。「大嶋博道」で検索を)

(序論)
 本日は伝道献身者奨励礼拝を守ります。神学校及び神学生のために、そして神戸ひよどり台教会から次世代を担う献身者が起こされる事を願って祈り、みことばに聴きましょう。そして何よりも皆さんお一人お一人が「伝道者であること」を覚えて頂きたいと願います。

 さて、聖書の「召命物語」(イザヤ、エレミヤやモーセなど)には次の共通点があります。
@神の不思議な導き⇒(3章1節)羊を追っていたモ−セが不思議にも何百キロ離れたホレブの山に導かれた事
A神の不思議奇跡を見る⇒(3章2節)燃え尽きない柴。「火」は神の臨在を表しています。モ−セは燃える柴の間から聖なる神の声を聴き、神に出会います。
B神の声を聴く⇒(3章4.5節)「履き物」はその人がよって立つ根拠です。神はモ−セにその履き物を脱ぎなさいと言われた。神の臨在に触れたモ−セは自らの罪深さ(汚れ)、弱さ、非力さに気づかされます。
C神の選びの目的が明らかにされる⇒即ち、遣わされる事が明らかにされる(3章10節)「今、行きなさい(So,go now)
D神の派遣に伴う保証が与えられる⇒「私は必ずあなたと共にいる」(3章12節)躊躇するモーセに、神は「共にいる」という約束(保証)を与えられたのです。

(本論)今日のテキストから次の事を学びます。
@すべてのクリスチャンは神の「今、行きなさい」と言う命令に従う存在である、と言う事が第1の事です。
聖書には「行きなさい」と言う言葉よく出て来ます。それは派遣されるという本来の使命と共に「神のみ前に歩む」と言う事です。それは、礼拝者であり続けること、日々のデボーションに励むこと、さらに人生の「節目」を聖書のみことばによって導かれることを意味してます。
A神の「今、行きなさい(派遣)」という命令には「わたしはあなたと共にいる」という保証(約束)が伴っています。だから、神の命令に躊躇したり、恐れたり、拒んだりする必要はないのです。
B私たちは「神の宣教(Missio Dei)」に参与する存在です。
宣教の主体は神ご自身なのです。出エジプトという遠大な計画を遂行なさるのは神ご自身であり、モーセはこの聖なるご計画に参与すればよかったのです。私たちの宣教の働きも同様で、神のMissionです。

(まとめ)
モーセにとって必要なことは、彼自身の人間的な力でも身分でもなく「主が共におられる」ことへの確信であり、主によって遣わされたという使命感でした。心から謙虚にされて、自分の無力を認める者を神は用いられるのです。信仰生活において日々「今、行きなさい」という神のミッションを聴き、応答し続けたいものです。

2012/07/01(日) 「祈りを教えて下さい」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 ルカ11:1〜4
(ユーチューブでメッセージが聞けます。「大嶋博道」で検索を)

(序論)
 今朝は祈りの重要性、必要性について特に具体的にどう祈ったら良いかその「内容」について学びます。祈りはクリスチャンの特権であり使命です。祈りとは神様との霊的な交流(交わり)の手段であり「呼吸」のようなものです。ですから、クリスチャンにとって祈らない事は神に対する大きな罪と言われています。
 聖書で人が最初に祈った記録は創世記4章26節での「主の御名を呼び始めた(祈り始めたの意)」であり、次は12章8節でアブラハムが祭壇を築いて「主の御名を呼んだ」という箇所です。族長たちも、預言者たちも、詩編の詩人たちも皆、折りに触れて
祈っています。・・・そして、何よりも主イエスご自身、夜を徹して祈られるほどの「祈りの人」でした。

(本論)
 ルカ11章1節には「私たちにも祈りを教えてください」と弟子たちがイエスに尋ねた記録があります。またマタイ6章5節以下にはイエスの祈りについての教えがあります。それによると「祈る前から神は私たちの必要をご存知である」が、でも、だから、このように祈りなさいと教えておられます。
それによると祈りとは(祈りの順序とその内容は)先ず、最初に「お父様」「父なる神様」と幼い子が親に対して呼びかけるように神様に呼びかけそして続いて次のように祈ります。

1.神の御名を崇める事(自分を低くし、神を大きく高める)
2.神を賛美する事(神を思いほめたたえる)
3.感謝する事(神様がしてくださった業を思い、感謝する)
4.罪を告白し、懺悔する事(言葉と思いと行いで犯した罪を心から懺悔し、神の御言葉に従い得なかった事を悔い改める)
5.神様に具体的に願う事(祝福してください。守ってください、と自分の願いを神に言い表す事)
6.執り成すこと(◯◯さんの◯◯を守ってください、等と他人のた めに願い祈る事、その人に代わって神の恵みを願う事)
7.献身の気持ちを表す事(自分自身を神に献げるとか、与えられて いる賜物を神様に捧げる事)
 
 そして祈りの終われには「イエス・キリストの御名によってお祈りします」と祈ります。

(まとめ)
 「神よ、わたしを、あなたの平和を実らせるために、用いてください」で始まる聖フランシスコの「平和の祈り」は有名ですが、そのフランシスコがどのように祈っているのかを見ていた弟子によると「主よ…」「主よ…」と深いうめきと共にただ「主よ…」叫ぶように祈っておられ、大変感動して、やがて弟子となったいう有名な話があります。祈りは人を変え、日本や世界を動かします。私にも祈りを教えてくださいと主に祈り求めましょう。 


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