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2012/07/15(日)
「みことば〜密のように甘く」 大嶋博道
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(序論) エゼキエルの召命―南王国ユダがバビロンに捕囚となって5年、ケバル川の河畔でエゼキエルが神から預言者の召しを受けた。彼は神から「巻物」を与えられ、口を開いて食べるように命じられた。そこには「哀歌(悲しみ)」と「呻き(嘆き)」と「嘆き(災い)」の言葉が記されていた。これは、イスラエルがこれから先、味わわなければならない民族の悲劇と同時に、神ご自身の悲しみと嘆きと呻きの表現であった。
「巻物」を食べるとは― 神が命じた巻物を胃袋に入れ、腹を満たすとは、全存在をもってみことばを受け入れること、すなわち、神の審判の言葉を魂の奥深いところに受け入れ、預言者として召された全生涯の中で、これを繰り返し「反逆の民」に語り続けることを意味する。 「巻物」は密のように口に甘いとは―本来なら、神の厳しい審判の言葉が記されている巻物は「胆汁のように苦い」はずである。しかし、エゼキエルは、神の審判の背後に、神の真実な愛(ヘセド)があることを確信していた。 神は反逆の民であるイスラエルを滅ぼすためでなく、救うために裁きをされる。だから良薬のように口に苦いが、その奥深いところには「甘さ」が隠されていることを知っていたのである。
(本論) 私たちの信仰生活において、「みことば」が密のように甘いというのはどのようなことなのか? (1)みことばは私たちの「明日の生活」を変えていく力である。 ルターやカルヴァンが大切にした“ビバ・ボックス(生命の言葉)” は信仰生活に大きな影響力を与えている。例えば「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)というイエスの言葉はなかなか実践できるものではない。クリスチャンの生活の中に重くのしかかってくる言葉である。一生に一度かもしれないが、その言葉をかみ締めておれば必ず実践する日が来るかも知れないのである。(「塩狩峠」の長野政雄氏の事例) 確かに、みことばは私たちの明日を、将来を大きく変える力である。そう言う意味においてみことばは密のように甘いのである。
(2)みことばは、私たちの道の光、歩みを照らす灯火である。 詩編119:1-5に「あなたの御言葉は、私の道の光、わたしの歩みを照らす灯」と記されている。この世は光を必要とするほど「暗闇」なのだ。私たちは衣食住のことで、健康のことで、仕事や学 校のことで、そして複雑な人間関係などでしばしば思い悩み、時には落ちこんだり挫折したりする。 そのような私たちの足元を照らす灯火(ランプ)がみことばであり、さらにずっと将来を照らす光がみことばである。ロゴスであるイエスご自身が「暗闇を照らすまことの光」としてこの世に来られ、今も私たちと共におられるのである。
(3)みことばを伝える群れになろう。 みことばは密のように甘いので、自分一人で食べ続ければいいのだが、神は私たちが神のパートナーになることを求めておられる。エゼキエルは「イスラエルの家に行き、語りなさい」と何度も命じられた。私たちクリスチャンの使命は「神のミッション(Missio Dei)に参与することである。宣教は神のみ業、私たちは神の働きに参加するだけでいいのだ。さあ、これから勇気をもって、家族に、知人に、近隣に「密のように甘い」みことばを宣べ伝えたいものである。
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