ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2012年8月
前の月 次の月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

直接移動: 20163 月  20153 1 月  201412 11 10 9 8 7 月  20139 8 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 月 

2012/08/26(日) 「思い煩いから平安の人生へ」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 フィリピ4:6〜8

序 論:
私たちは、日常生活のこと、健康のこと、対人関係、現在と将来に関する事柄、さらに、大きくは世界の情勢、地球規模の問題など、多種多様の思い煩いの中に生きています。
思い煩い」を意味するギリシャ語「メリムナ」は「心が分割していること、心が二つに分かれてしまっている状態」を指しています。

なぜ、思い煩うのか?―思い煩いの原因を探る
@自分の未来はこうなると自分勝手に決めつけてしまうから。
A物事を悲観的に考えすぎるから。
Bいろいろなものを持ちすぎているから。
C人間存在の本質は「弱さ」すなわち「欠けだらけで有限な存在」であることを認めないから。
D自分の人生を神に委ねて生きる「信仰」を持たないから。
ジョン・ウエスレーは「この思い煩いは、痛みを伴う病い、魂の悲しい疾患であるだけでなく、神に対する忌むべき違反、最もたちの悪い罪です。」と述べています。
本 論:
日々、思い煩いの中に生きる私たちに、聖書は「思い煩わなくていい」「すべてを神のみ手にゆだねなさい。神が最善に導いて下さる」と告げています。幾つかの聖書の箇所を引用して
紹介しましょう。
@ルカ12:22〜29(イエスのことば)
Aペトロ第一5:7
Bフィリピ4:6(今朝のテキスト)

では、思い煩わなくて良いという根拠は何なのか?
(1)神が養い、装ってくださるから。(ルカ12:24,28)→神の配慮
(2)神が私たちのことを心にかけていて下さるから(ペトロ第一5:7)
(3)神はどんなことでも最善に導かれるから

だから、私たちに求められていることは?
@何事でも神に訴えるということ(フィリピ4:6)
祈りというのは、信頼をもっての神への全面的な委任であります。
A神から与えられる平安によって、人生に立ち向かうこと
祈ったあとも私たちを取り巻く現実は、祈る前と同じようなものであるかも知れません。いや、事態はもっと深刻になっているかも知れません。しかし、それにもかかわらず、もう神に任せたのだから、神が必ず何とかしてくださる、そういう平安が私たちに神から送られてくるのです。
Bただ、神の国を求めること
神のみこころを優先して生活する。信仰に一途に生きるということでしょうか。
 
まとめ:
 ジョンウエスレーは「遠い将来に何をしようなどと、思い悩んではなりません。そのような遠い将来は、来ないかもしれません。また、あなたの関心事でなくなっているかも知れません。・・・ あなたはその日その日の存在でしかないのです  ・・・神が今日という日に、あなたの上に降りかかることをよ
しとされたことは何でも、御名のために喜んで耐え忍びなさい。しかし、明日の苦しみを見てはなりません。 「労苦はその日その日に、十分なのです」 祈祝福!

2012/08/19(日) 「一粒の麦」畑中康雄勧士
「一粒の麦」畑中康雄勧士
信徒礼拝 ヨハネ12:23〜26

(内村鑑三先生の紹介)
 内村鑑三先生はご自身の系図を「私はごくつまらない者でございますが、やはり日本の武士の家に生まれたものであります。武士の家に生まれたばかりでなく、私の先祖をしらべると、先祖はつまらない百姓であったそうでありますが、鉄砲を撃つのが上手で、それがために天草にヤソ教徒が起こった時に狙撃にいくために雇われて彼地に行ってだいぶキリスト教徒を撃ち殺した、そのおかげで武士にとり立てられたということでありますから、その子孫たる私がキリスト教を信ずることは遺伝から言っても非常に
困難でありました。」と語っています。

(本日のみ言葉から)
み言葉に「だが、死ねば多くの実を結ぶ」とあります。自分の大切なものを捨てる事により新しい命に生まれ変わるというこのみ言葉に続いて「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあります。人が自分の立場とか、名誉とか大切に思いこの世的なものにしがみついている間は何も変わりません。新しい命は生まれませんが、それを神さまのために捨てる時に「永遠の命を得る」と言われているのです。イエスのご生涯は、特に十字架上の死と蘇りは正にその事の証明でした。イエスは自分の命に固守される事なく十字架上で命を捨てられました。その結果、神はキリストを高く上げられ、あらゆる名にまさる名をお与えになられました。
私たちが死ぬという事は本当に自分の生命を「殺してしまう」という事ではなくて「神さまの思いの中に自分を置いて、神さまが私たちに求めておられる事を信じて実行する」という事、それは「自分を犠牲にする」事が出来るという事であると思います。

(内村先生の悲しい思い出)
内村鑑三先生をこの上なく尊敬した1人に花巻市の旧家の息女で高橋ツサ子という女性がいました。
内村先生の門下生となり模範的な働きをしますが病気になり帰郷し27才で天に召されます。彼女の死を知った内村先生は愛娘ルツ子が重体であったにもかかわらず花巻に行きます。そして悲しい別れの司式をしている時に奥さんから「ルツコヤマイオモシスグキタクノゾム」との電報を受け取り帰京しますがルツ子は数え年19才で天に召されました。さて、高橋ツサ子のお母さんは内村先生に葬儀の司式を依頼しておきながら、同時に仏教の僧侶にも葬儀をしてもらいツサ子をお寺に埋葬します。そんな事をする母親だとは知らずに愛娘の重病を押して花巻に行き、葬儀の司式までした内村先生は流石に唖然とされたとあります。「信仰生活とこの世の生活」に直面して生きている私たち、このような事に遭遇した時、果たしてどのように対応すれば良いと思われますか。

2012/08/12(日) 「人生のうめき」大嶋博道牧師
 聖日礼拝 ローマ8:18〜30

(序論)
人生には「うめき」があります。「うめき」とは、理不尽な試みに出会った時に心が発する「つぶやき」です。ギリシャ語の「スステナゾー」は呻く、うなる、嘆く、苦痛のあまり低い声を出すと言った意味もあります。呻きは「なぜですか?」という神への「苦しみの問いかけ」です。
パウロも伝道者生涯の中でよくうめく人でした。それは
@パウロには持病がありました。身体に棘がありました。それは大きな棘でした。
Aパウロは、クリスチャンを迫害していた時のツケがまわってきたのではないかという苦しみがありました。
Bまた、パウロはキリスト者を迫害していたと言う経緯から「偽伝道者」と思われて迫害され、非難されることもありました。
Cパウロが建て上げた教会が、パウロがいなくなってから「異端が入る」という苦しみもありました。
D教会の中に人間的ないがみ合いが発生し、混乱すると言う事がありました。
E自分がしなければならない事をせず、してはならない事をしているという苦しみがありました。この事は、ロマ7章15節に赤裸々に告白しています。
(本論)
私たちには「うめき」があります。自分の考えている事、願っている事が実を結ばない時、弱さを覚える時に時として「うめき」を覚えます。ここから次の2つの事を学びます。
@神が私たちの中に宿られるのが「うめき」です。「うめき」の中にこそ、神が宿られるのです。ですから人生の中にうめきが無くなる事はありません。その「うめき」の中に神が共にいてくだるのです。ですから、「Glory in Groly」ではなく「Glory in Suffering」と言えます。
A神はその「うめき」を聴いてくださり、そして全てのことが益となるように働いてくださるのです。(ロマ8章28節)神はそこに最善をなしてくださるのです。その最善は、私たちの願う、望む、期待する最善ではなく、神ご自身のご計画に沿った最善です。
まとめ:
あの東日本大震災で、一人の母親が愛する息子を失いました。彼女は牧師に遺体安置所に同行し、息子を捜して欲しいと頼んだのです。牧師は承諾し、一緒に行きました。ある柩のところで、母親は立ち止まりました。「あなたの息子さんですか?」と尋ねる「いいえ、息子ではありません」と母親。しかし、彼女は夜通し、その柩の前でたたずみ、泣き続けていたのです。牧師も夜を徹してそっと寄り添いました。翌朝、彼女は「確かに息子です」と認め、呻くように泣き続けたのです。彼女が自分の息子の死を認めるのに二日要したのです。牧師はずっと、寄り添っていました。
 聖霊は私たちの呻きの真っ直中に「パラクレートス」として共に居られます。ずっと寄り添って下さるお方、慰め主、愛の神なのです。「呻き」は神の恵みです!

2012/08/05(日) 「聖くすこやかに神に生きる」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式  ガラテヤ2:19〜20
(序論)
 今日の聖句はキリスト教的人生観〜クリスチャンの生き方が語られています。このテキストでパウロは、
@神に対して生きるために律法に対しては律法によって死んだ(19節)
Aわたしはキリストと共に十字架につけられ、生きているのはわたしではなくてキリストがわたしの中に生きておられる(19〜20節)
Bわたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身を献げられた神の子に対する信仰によって生きている(20節)と言っています。クリスチャンとはイエスを主と信じる者、キリストに従う者、さらにキリストなしでは一瞬たりとも生きる事が出来ない人を言います。
(本論)
 この聖書の箇所から次の3つの事を学びます。
@「律法に対しては律法によって死んだ」という意味を理解するためにガラテヤ3:1〜見ておきましょう。旧約時代には人が神に義と認められるためには律法を完全に守る必要がありました。しかし、律法を完全に(100%)守ることが出来る人はだれもいなかったのです。むしろ、律法によって人間は自らの罪深さ、弱さ、無力さを知ることとなったのです。ですから、パウロは「律法によって律法に死なされ、律法がいかに空しいものであるか」に気づいたのです。そこから、彼はイエス・キリストを信じる信仰に生きる道を選んだのです。
A「キリストと共に十字架につけられた」とはパウロ自身が言っているように、私たちは今も十字架につけられ続けているのです。そして古い自分は死んでしまっているはずです。ですから、私の人生のハンドルを握っておられるのは私でなく、主イエスなのです。生きているのは私ではなくてキリストご自身が生きておられるのです。これが「聖め」の原点というべきものです。
B「信仰によって生きている」〜神に従う人(義人)は信仰によって生きる(ハバクク書2章4節)のです。全ての人はキリストを信じる信仰によってのみ生き、生かされているのです。信仰によって生きるとは、礼拝生活であり、日々のデボーション生活であり、何よりもそれは「み言葉に導かれ(コントロールされ)て生きる」ということに他なりません。このような生き方が「聖くすこやかに神に生きる」という事なのです。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.