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2012/08/05(日)
「聖くすこやかに神に生きる」大嶋博道牧師
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総員礼拝・聖餐式 ガラテヤ2:19〜20 (序論) 今日の聖句はキリスト教的人生観〜クリスチャンの生き方が語られています。このテキストでパウロは、 @神に対して生きるために律法に対しては律法によって死んだ(19節) Aわたしはキリストと共に十字架につけられ、生きているのはわたしではなくてキリストがわたしの中に生きておられる(19〜20節) Bわたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身を献げられた神の子に対する信仰によって生きている(20節)と言っています。クリスチャンとはイエスを主と信じる者、キリストに従う者、さらにキリストなしでは一瞬たりとも生きる事が出来ない人を言います。 (本論) この聖書の箇所から次の3つの事を学びます。 @「律法に対しては律法によって死んだ」という意味を理解するためにガラテヤ3:1〜見ておきましょう。旧約時代には人が神に義と認められるためには律法を完全に守る必要がありました。しかし、律法を完全に(100%)守ることが出来る人はだれもいなかったのです。むしろ、律法によって人間は自らの罪深さ、弱さ、無力さを知ることとなったのです。ですから、パウロは「律法によって律法に死なされ、律法がいかに空しいものであるか」に気づいたのです。そこから、彼はイエス・キリストを信じる信仰に生きる道を選んだのです。 A「キリストと共に十字架につけられた」とはパウロ自身が言っているように、私たちは今も十字架につけられ続けているのです。そして古い自分は死んでしまっているはずです。ですから、私の人生のハンドルを握っておられるのは私でなく、主イエスなのです。生きているのは私ではなくてキリストご自身が生きておられるのです。これが「聖め」の原点というべきものです。 B「信仰によって生きている」〜神に従う人(義人)は信仰によって生きる(ハバクク書2章4節)のです。全ての人はキリストを信じる信仰によってのみ生き、生かされているのです。信仰によって生きるとは、礼拝生活であり、日々のデボーション生活であり、何よりもそれは「み言葉に導かれ(コントロールされ)て生きる」ということに他なりません。このような生き方が「聖くすこやかに神に生きる」という事なのです。
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