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最新の絵日記ダイジェスト
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2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
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2012/09/30(日) 「わが前を歩みて全き者であれ」大嶋博道牧師
聖日礼拝 創世記17:1〜8

(はじめに)
 クリスチャンの信仰の全ては「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言う1節のみ言葉に尽きます。しかし、「神の前に全き者」となろうと努力しても私たちには色々な誘惑や試練があり、そう簡単には行い得ないのは現実です。
 今日のみ言葉によると、創世記16章の終わりから13年を経過し、アブラハムが99才になった時に彼は「主の前を歩み、全き者となれ」と言う神の声を聞きました。その時のアブラハム
は神の前を歩いていたのでしょうか。全き者であったのでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。そんなアブラハムに神は「あなたをますます増やす」と約束され、「私の前に歩みなさい」と言われました。

(本論)
 神がアブラハムに約束された創世記17章のみ言葉から次の2つの事を学びます。
@聖書の神は全能の神である(エル・シャダイ)と言う事が第1の事です。神は完全無欠であると言われました。全ての事が可能なお方であると言われました。全能の神は神が必要とされる事は必ず成し遂げられるお方なのです。「無から有を呼び起こされる」お方です。必要が満たされ、希望を与えてくださるのが全能の主なる神なのです。

A全能の神の前に歩み、全き者となれ、と言うのが第2の事です。「わたしに従って歩む」とみ言葉にある事は「私の顔の前に歩む」と言う事です。人は他人の「目」を意識して歩むことがあります。人間の目では無くて、神の目を意識して、神の目を注視して歩めと神は言われます。
「全き者」とは道徳的、倫理的に完全な者、非の打ちどころのない者というのではないのです。
「全き者」とは、四六時中、本当に神様の前を歩み、「神の眼差し」の中で神との関わりに生きる人のことで、神様はそういう人を求めておられるのです。それは、素直に自分の弱さを認める生き方、謙遜な生き方、従順な生き方です。それが神さまが期待しておられる全き者の生き方なのです。

(まとめ)
 神様が求めておられる「全き者」としての歩みは、「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」とUコリント13章11節にあるような歩みのことです。私たちはこのコリント13章のみ言葉を信じて、実行して、神の前に完全を求めて、日毎に全能の神を求めて、神様のご期待に応える事が出来る歩みをしたいものです。

2012/09/23(日) 「ヨブ記に学ぶ」畑中康雄勧士
信徒礼拝 ヨブ記1:1から

(はじめに)
 人は何故、苦しまなければならないのか。このような問いをあなたはしたことがないでしょうか。
聖書の中にも苦しみについての書があります。その1つがヨブ記です。ヨブ記は苦しみに耐える力を必要とするあなたに何かを語ってくれます。今日はヨブ記を通して苦しみ、試練の意味を学びます。
(本論)
 @サタ−ンとは「訴える者」という意味です。そのサタ−ンが1つの問題に直面します。それはヨブには訴えられる理由が何一つ無いのです。そればかりか神はサタ−ンに対してヨブを誉められます。そして、神はその正しい人ヨブを信頼されてサタ−ンの手に任せられます

A誘惑には「罪が大変美しく、魅力的に見える事」と「かけがえのないものを失ったために神から離れる事」の2種類があります。ヨブが特に悪い人であったから誘惑に遭ったのではありません。ヨブは神さまの試みによってその財産と家族等の全てを失ったのに神を呪わないで「主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ」と神を賛美しました。それほど正しい人でした。神の目からも正しい人でした。

Bイエスも同じようにサタ−ンの誘惑を受けられました。その時にサタ−ンの誘惑よりも「退け、サタ−ン…と言われ、悪魔は離れ去った」とみ言葉にあるように神の言葉を選ばれてサタ−ンを退けられました。同じように私たちもみ言葉によって「誘惑・試練」に勝利する事が出来るのです。
(結論)
 ヨブの苦しみから学ぶ事は何か。
それは
@「神と神の恵みの手段(聖書・洗礼・聖餐)を重んじる人は誰でも神に栄光を受ける人生を送る事が出来る」と言う事が第1の事です。
Aヨブの苦しみの言葉は私たちの苦しみの言葉です。そしてヨブの希望は私たちの希望となります。同じように私たちの生き様は私たちの周囲の人に大きな希望を与える事が出来るという事が第2の事です。
Bヨブの苦しみの第3の意味は「ヨブの苦しみを通してイエス様を見る事が出来る」という事です。
ヨブが何の罪も無いのに試練に遭うという事は主の十字架上のお苦しみにつながります。
ヨブは「主は与え、主は取られる」「私たちは幸いを神から受けるのだから、災いをも受けなければならない」とイエスが十字架上の死を受け入れられたように、ヨブも神さまに全てをお委ねする信仰に生きました。このヨブの生き方に学びたいと思います 

2012/09/16(日) 「あなたも家族も救われます」岩本助成牧師
献堂16周年記念礼拝 使徒言行録16:25〜34

(ご挨拶)
 16年前の新会堂献堂式以来、久しぶりに神戸ひよどり台教会の講壇に立たせていただき感謝します。その間の御教会の成長を心からお喜びし、また感謝します。

(本論)
 さて、本日は使徒言行録16章のみ言葉をとおして2つの事を学びます。
@「牢獄における賛美」について
 パウロとシラスは真夜中に詩編を賛美して祈っていました。それは牢獄の中での事でした。他の囚人たちは二人の賛美を聞き入っていたとあります。何と素晴らしい光景ではないでしょうか。むち打たれ、からだ中が傷つき痛む中でパウロとシラスは賛美歌い、囚人たちは「聞き従っていた」のです。この人たちは血こそ繋がってはいませんがまさに「家族」です。
教会は賛美の群れです。賛美は周囲を変えます。「信仰」とは、何もよく分からなくても「信じる」ことなのです。全部分かってから信じるのではないのです。「礼拝に出席する」「祈る」「聖書を読む」「賛美する」という事はたとえ習慣であっても大切な事です。

A「信じるとあなたも家族も救われる」という事について
 聖書によると、彼らが賛美と祈りをしている時に、大地震が起こります。看守は囚人たちが逃げてしまったと思って自殺しようとしますが、パウロやシラスも囚人たちも逃げてはいませんでした。逃げ出せる状態にありながら、彼らは逃げようとはしませんでした。そのような形で神は彼らのうちに力強く働いてくださったのです。
 そこで看守は「救われるためにどうしたら良いか」と尋ねます。パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」(31節)と答え、看守もその家族もすぐに洗礼を受けました。そして神を信じる者となった事を家族ともども喜んだのです。

(終わりに)
 私の父は頑固でキリストをなかなか受け入れませんでした。しかし私がこの「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」とのみ言葉を信じ続け、祈り続けた結果、父はついに救われることが出来たのです。1人の人の名を挙げてこのみ言葉を信じて祈り続ける事の力を体感しました。
あなたが祈らなければ、その人のために誰も祈る人はいないのです。祈りましょう。1人の名を覚えて祈りましょう。この事は大切な事なのです。このみ言葉にすがりついて祈りましょう。神はこの祈りに応えてくださいます。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。

2012/09/09(日) 「信仰の杖一本をもって」大嶋博道牧師
高齢者祝福礼拝 ゼカリヤ書8:1〜13/詩編23:1〜6
はじめに:
 本日は高齢者祝福礼拝を守ります。日本人の平均寿命は男子が80才で世界第4位、女子が86才で世界第1位でだそうです。そして65才以上の人は約25,000,000人、即ち国民の5人に1人(20%)が高齢者ということになります。今朝は高齢者の祝福を願ってメッセージをお伝えします。
 聖書には「」と言う言葉が幾つか出てきますが本日はその中から4つの「杖」について学びます。

本 論:
@「支えの杖」(ゼカリヤ書8章4〜5節)
 この聖書の箇所は老人・若人が共に集まって神の恵みを喜んでいる姿が記されています。
老人は長寿ゆえに杖をもっています。それはまさに彼らが主である神に心から信頼し、すがっている姿です。諺に「転ばぬ先の杖」というのがありますが、これらの老人は神の温かい「支えの杖」を持って、決して転ばないように立ち続けているのです。

A「慰めの杖」(詩23編1〜4節)
 ここでは、主は私の本当の羊飼いと書かれています。羊飼いは羊を外敵(野獣や盗賊など)から守るための「鞭」と道に迷っている羊を連れ戻すための「杖」を持っていました。「杖は私を力づける」とありますが、それは私を「慰める」、「安心を与える」、「勇気を与える」、「励ます」という意味です。
神の慰めの杖でした。「たとえ死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける(4節)とみ言葉に
書かれている通りです。

B「権威を表す杖」(出エジプト4章1〜4節)
 モ−セの杖は高齢者の杖では無くて「神の権威」を表す意味を持った杖でした。どんな権威か?聖書によると「モ−セが杖を高く上げて海に差しのべると海が真っ二つに分かれて道が出来」また「苦い水に杖を入れると甘い水になり」そして荒野の中で水が無かった時には「杖で岩を叩くと水が出た」とあります。(出エジプト記13:21〜22,15:25,17:6〜7参照)

C「イエス・キリストという杖」(創世記32章10〜11節)
 ヤコブは杖一本でヨルダン川を渡り、ハランの叔父のところへ出かけたが、20年後には二組の陣営を持つまでに豊かに祝福されました。また、テモテ第一6:7には、私たちは何も持たないでこの世に生まれ、何も持たずに世を去っていくことが書かれています。ですから私たちはイエス・キリストと言う1本の杖を持って毎日を主に信頼し、主にお仕えしながら生きていきたいと思います。
新聖歌278番にあるように「信仰こそ旅路を導く杖」なのです。高齢者と共に本日、礼拝に集われたすべての方々の上に神の豊かな祝福と平安をお祈り致します。

2012/09/02(日) 「神の業がこの出来事をとおして」大嶋博道牧師
総員礼拝 ヨハネ9:1〜12
(序論)
 9章3節が今日の中心となるみ言葉です。
私たちは苦難や試練を通して「何故このような理不尽な事が起こるのか」と神に問う事があります。今日のみ言葉はこの問いに対する答えです。

(本論)
 イエス時代のユダヤ人は病気になるのは先祖か両親か本人が罪を犯した結果と考えていました。しかし、イエスはそれは「神の栄光を現していく人間に変えられるようになるためである」と言われています。
 人間の苦しみには「美しい自然が見えない肉体的な苦しみ」「社会的な(差別されると言う)苦しみ」「霊的な(罪の報いという)苦しみ」があります。この不幸な苦しみを通して神は「神の業を現していく事が出来るようにこの人を変えてくださる」とみ言葉は語っているのです。
 しかし神は、神の栄光を現すために人を不幸にさせられるのでは無くて、この人の不幸を通してこの人が神の栄光を現す事が出来るようにとその人を変えてくださると言うようにこのみ言葉を受け取りたいと思います。大切な事は次の3つです。

@人が苦しみに遭うのには意味があります。多くの人が苦しみに遭ういます。出来れば遭いたくはないのですが、それは避ける事が出来ないばかりか遭うことに意味があるのです。
それは私の弱さを問いかけ、信仰に向き合う事が出来るようになる、苦しみの中で神を求めるようになると言う事が第1の事です。

Aその苦しみから「逃れる道」を神が備えていてくださると言う事が第2の事です。試練と共に「脱出の道」、「克服の道」も神は用意しておられるのです。

B神はあなたの苦しみを用いて神が素晴らしい事を示してくださる、神の栄光を現す事の出来る人間に変えてくださると言う事が第3の事です。

(まとめ)
 アメ−ジンググレスの作詞者のJohn Newtonは奴隷船の船長をしていました。そして自分のしている事に気づいて悔い改めて、自分のような者でも神さまは驚くべき恵みを与えてくださる事に感謝してこの詞を作りました。
また、仏人のルイ・ブライウェルは3才の時に失明するのですが、13才になった時に聖書を読みたいと思って点字を発明しました。目が見えないと言う事を通して彼は神の栄光を現す「点字」発明に至ったのです。
そして、大横綱の双葉山は子どもの頃に友人が放った吹き矢によって左目を失明しますが父親は最後までそれが誰だったのか伝えませんでした。双葉山はこの失明と言う試練を乗り越えて大横綱になりました。神はこのように苦難や試練を通して私たちを日々造り変えてくださるのです。


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