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最新の絵日記ダイジェスト
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2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
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2013/01/27(日) 「途上」 東 隆 牧師
特別礼拝 ヘブライ11:13〜16
(序論)
信仰とはまだ確認していない事を真実な事として、神さまのご計画として確信する事です。
見えるものは見えるものによって成り立っているのではなくて、実は見えないものが見えるものを支えているのです。信仰はこのような「虚と実」の関係で成り立っています。私たちは恵みという見えないもので支えられているのです。
クリスチャンになって私たちは如何に罪深い者であるか、如何に神さまに支えられているのかという事が分かります。クリスチャンは十字架上の出来事とみ言葉によって支えられている〜目で見て確認する事は出来ないが、目で見て確認する事が出来ないものによって支えられているのがクリスチャンです。信仰とはその事を確認し、確信する事なのです。
(本論)
今日のみ言葉がこの事を教えています。本当に大切なものは目に見えないという事です。

モ−セは出エジプトの旅の途上で多くの困難に出会いますが、神さまが後ろから支えてくださり、導いてくださり、約束を実行してくださいました。私たちの人生の旅も今はその「途上」
にあります。今日のみ言葉に自分たちは地上では仮住まいであり、更にまさった故郷すなわち天の故郷を熱望し、そして神さまは彼らのために「都」を準備されたと書かれている通りです。
主が私たちと共に、一緒に歩んでくださるという事がみ言葉に書かれている神の約束です。
そして主を信じる事によって私も、私の家族も救われるのです。私は1人ではなく、いつも神さまが共に居てくださる、共に歩んでくださるのです。キリストが私たちの人生の旅の途上を守っていてくださるのです。今の私たちは地上では仮住まいの者であり、よそ者です。
しかし、私たちクリスチャンは一切を神にお任せして、神さまにおゆだねしてその人生の途上の旅を歩む者なのです。
(まとめ)
私たちは本当に行くべき所(帰るべき所)を知っています。私たちはそこへ辿りつくための「旅の途上」にあります。神さまはそんな私たちと共に歩み、導いてくださいます。からみつく重荷をかなぐり捨てて、完成者であるイエスを見つめながら忍耐強く歩みたいと願います。

2013/01/20(日) 「主との出会いに生きる」大嶋博道牧師
震災18周年記念礼拝(標語の学び) ペトロ第一1:3〜9
(序論)
 本日は今年の教会標語「主との出会いに生きる」について学びます。
今年この標語を掲げた理由はここ十数年クリスチャンとしての内面の成長を願う標語を掲げてきました。今年もその流れの中でクリスチャンとしての内面が充実する事を願いながらこの標語を掲げました。聖書に出てくる人々は主なる神に出会うという宗教体験をしました。幾つもの例が聖書に出てきます。今年は皆さんにも是非とも主との出会いと言う宗教体験をしていただきたいと願っています。
クリスチャンとは、まだキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、 言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれている人です。

(本論)
 本日のみ言葉から次の3つの事を学びます。
@その第1は「主と出会うとは」と言う事です。聖書では「信仰について」どのように 語られているでしょうか。ヘブライ1章1節には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、 見えない事実を確認することです。」とあります。神への信頼が何よりも先にあるのが信仰の神髄です。神に対する全幅の信頼があるから見えない事実を確認する事が出来るのです。人は明日が分からないで生きています。その不確かな生活は神に対する信仰によって確かなものとされるのです。
 では具体的にどのようにすれば主と出会う事ができるのでしょうか。ウエスレーの「恵みの手段」から学びましょう。第一は祈りによるのです。祈る事、神との交わりに よって出会う事が出来ます。次に、聖書に親しむ事によって出会う事が出来ます。聖書を全体的に、また継続して読むことによって主との出会いを体験するのです。
そして、そのみ言葉を実践する事が大切です。あと一つは「聖餐に与ること」です。

A第2の事は「何のために出会うのか」と言う事です。
「主との出会い」と言う縦の関係と「共に生きる」と言う横の関係、即ち隣人の体と霊 とにどのように関わって生きて行くのかと言う事が何のために主と出会うと言う事の答えです

B第3の事は「生き生きとした信仰生活を送る」と言う事です。生き生きとした信仰生活を送る為には主と出会い、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれる事が必要です

(まとめ)
 今年は日々主との出会いを経験しましょう。なすべき事は礼拝生活日々のデボ−ションです。私たちは主との出会いの中で日々新しくされ、主イエスを宣べ伝え、日々、平安のうちに感謝と喜びに満ちあふれた生活を送りたいものです。

2013/01/13(日) 「一粒の麦として〜置かれた場所で」大嶋博道牧師
新成人祝福礼拝 ヨハネ12:20〜26
(序 論)
 今日の中心となる箇所は「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)と言うみ言葉です。今日はこのみ言葉から学びます。
それは一粒の麦として生きる、という事です。
 聖書の時代のイスラエルは、申命記8章8節にあるように小麦、大麦などが身近に存在する植物として人々には関心があり、例えに用いられることがありました。
今日のみ言葉はイエスが十字架に架けられる1週間前の出来事であり、一粒の麦が地に落ちて「死んだら=原型を失ったら」多くの実を結ぶという身近な事を通してご自分にこれから起きる事について語られたのです。
 この事は私たちへの語りかけです。25節には自分の命に固守して、自分の命にこだわるならばそれは空しく終わるがそれを必要としている人々のために有効に使うならばその人の人生は豊かなものになるとお教えになっています。

(本 論)
 本日は新成人祝福礼拝を守っていますので、今朝のテキストから「一粒の麦として生きる」ために次の3つの事を特に、新成人にお贈りします。
@一粒の麦として岩を土台として生きる、と言う事が第1の事です。 私たちが何を土台として生きるのかと言う事についてはマタイ7章24節以下に書かれています。みなさんはどんな生き方が自分の使命なのかと言う事を考えて聖書に基づく人生観や価値観をもって生きて欲しいと願います。

A第2の事は、日々新しきされて生きる、と言う事です。それはUコリント5章17節にある通りです。誰でもキリストの内にあるならば日々新しくされます。新成人になられた皆さんもどうぞキリストにあって日々新しくされて生きて欲しいと願います。

B愛の人にされると言う事が第3の事です。聖書は自分を捨てる事によってなされる愛の業を教えています。それは敵をも愛する愛です。あなたが存在する事によって周囲の人々に喜びを与え、慰めを与え、平安を与えると言う生き方をしながら愛に生きて欲しいです。

(まとめ)
 「一生の終わりに残るものは、われわれが集めたものではなく、われわれが与えたものだ」というシャンドリーのことばを心に刻んで、「一粒の麦となって地に落ちること」、そして「犠牲的な愛に生きる」ことを心がけてください。
それが、ここにおられる皆さん、特に新成人に贈るメッセージです。祝福をお祈り致します。

2013/01/06(日) 「紅海(道)は必ず開かれる」 大嶋博道牧師
 新年礼拝・聖餐式  出エジプト14:19〜25

(序 論)
 今朝は新年礼拝を守ります。今年も教会に沢山の年賀状をいただきました。感謝します。
今日のみ言葉の箇所以外に、もう一箇所見ておきたい聖書のみ言葉があります。
 それはTコリント10章13節です。このみ言葉はパウロがイスラエルの民の「出エジプトと荒れ野の40年の物語」を思い起こしながら書き送ったのではないでしょうか。
 モ−セは一番の近道であるペリシテ街道を通らないで紅海に通じる荒れ野の道に迂回させられました。そしてその紅海にさしかかった時にエジプト軍が迫ってきたのです。その時の物語が今日の聖書の箇所です。
 さて、この聖書の物語は21世紀に生きる私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。

(本 論)
 それは次の2つの事です。
@試練の中でこそ、真実な全能の神に出会う事が出来る、と言う事が第1の事です。真実な神は私たちと共におられ、全ての事を支配しておられるのです。「神と出会う」という宗教体験は幸いな時よりも試練を受けている時に多いのです。神は「民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられ」(出エジプト13章18節)て試練を与えられ、そして「ファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせ」(14章4節)「ファラオとその全軍を破って栄光を現され」(14章17節)ました。試練を与えられる神は、試練を支配しておられ、試練を通してご自身と出会うことを願っておらえるのです。

Aここにこそ救いの原点があるというのが第2の事です。
 信仰とは見た事がないのに信じる事です。しかし、その事を体験する事によって私たちの信仰はより一層深まります。私たちは苦難の中にあって「紅海が開かれた」「荒れ野でマナが与えられた」という神のみ業を経験をします。Tコリント10章13節のみ言葉はまさにそのように私たちに与えられた苦難や試練の時に必ず「のがれる道(抜け道)」を神によって備えられているという神の約束の言葉です。ここに信仰の原点、救いの原点があります。(参考聖句:申11章1〜7節/イザヤ43章1〜2節)

(まとめ)
 聖書は私たちがどんな状態におかれていてもそこから逃れる道を示しているのです。
紅海は必ず開かれます。神はあなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に「逃れる道(脱出の道/克服の道)」をも備えていてくださいます。(コリント第一10章13節)


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