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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2013/03/31(日) 心が燃えていたではないか」大嶋博道牧師
イースター記念礼拝 ルカ24:28〜35

(序論)
 キリスト教は復活の宗教と言われています。主イエスの復活は私たちの「再創造」であり「再生」であり「再起」であります。 今朝は「イ−スタ−」の出来事をルカの記録から共に学びたいと思います。何よりも皆さんには復活の主イエスにこの礼拝を通してお会いいただきたいのです。
聖書によると
@2人の弟子(クレオパともう一人)は失意の中で故郷のエマオに 向かって歩いていた。
A2人にイエスご自身が近づかれ、一緒に歩き始められた。
Bしかし、2人の目は遮られており、そのお方がイエスだとは気 がつかなかった。
C2人は暗い顔(憂うつ/気が重い)をしていた。
D2人はそのイエスにエルサレムで起こったこと全てを話した。Eイエスは2人に旧約聖書から解き明かしをされた。
F夕方、エマオ近くでの家で、2人はイエスと共に食事をした
Gイエスはパンを裂き、祈りを唱えて2人に渡された。すると2人の目は開かれ、一緒に歩いていたお方がイエスだという事が分かった。彼らの心は道々、燃えていたことが分かった。
 という物語が甦りのイエスと2人の弟子の出会いの物語として記録されています。

(本論)
 この聖書の箇所から次の2つの大切な事を学びます。
@復活のイエスと共に歩く時に心が熱く燃える経験をする事が出来るという事が第1の事です。
私たちは心が内側から燃える事によって私たちが今、取り組んでいる働きを続ける事が出来ます。そして心が燃えるためには今日の聖書にあるようにキリストと共に歩む事が大切です。
聖書を通して私たちに語りかけられるキリストのみ言葉が私たちの心を燃やす(カイオー)のです。

A第2の事は復活のイエスに出会う時に、本来の使命に向かって再出発する事が出来るという事です。「自分の命を使う」という事が「使命」です。「責任」とは「応答への能力」のことです。
あなたはこれから自分の命をどう使いますか。

(まとめ)
 イ−スタ−は私たちの「弱さ」を清算する時です。そして「再創造」される時です。復活された主のいのちを頂いて、日々、心が燃やされて新しい使命に生きたいと心から願っています。

2013/03/24(日) 「イエスが言われたとおりだった」畑中康雄勧士
「イエスが言われたとおりだった」畑中康雄勧士
  信徒礼拝 ルカ22:7〜13
(序論)
 出エジプト記によると奴隷として苦しめられていた民を神様はエジプトの王のもとから去らせようとなさいますが「王の心はかたくなになり」神様の言う事を聞きません。そこで主は様々な災いを起こして主の力を王に見せつけられます。それでも王の心はかたくなだったので「最後の災い」によりエジプトの民の初子が全て殺されるという怖しい裁きが行わます。その時に主は傷のない小羊の血が塗られている家は「過越す」(災いを及ぼさない)と言われました。「過越し」には裁きの主が私たちを過越され、死ぬべき私たちを救われたという意味があります。私たちが死ぬ代わりに小羊が殺される、そしてその犠牲の小羊が私たちの救いのしるしとなった事を記念する祭りが「過越しの祭り」です。

(本論)
 旅をされていたイエスに弟子は「過越しの食事をなさるのに、どこに行って用意いたしましょうか」と尋ねています。するとイエスは水がめを運んでいる男に『先生が弟子たちと一緒に過越しの食事する部屋はどこか』と尋ねるように言われました。2人の弟子たちは果たしてそのような人に出会う事が出来るのだろうか、その男の人は引き受けてくれるだろうかと多分不安に思いながら町に出かけたと思います。しかし弟子たちはイエスの言われた通りに都に出かけて行ってみると「イエスが言われたとおりだった」のでそこで過越しの食事を準備しました。
ここで「イエスが言われたとおりだった」という言葉には次の3つの大切な意味があります。その3つの意味とは

@弟子たちはイエスの言葉に従う時には少々不安がありました がイエスの言われた通りであった事、即ち「イエスの言葉は 真実であった」事

A「イエスの言われた通りであった」というその言葉そのもの、 即ち「イエスの言葉がこれから起こる事に先立ってあった」 という事

Bイエスが、ご自身を神の小羊として捧げられた十字架上の死 について予め「二日後は過越祭である。人の子は、十字架に つけられるために引き渡される。」と過越しの食事の2日前に語っておられた事です。
 祭司長たちの謀略、ユダの裏切りがありましたが「イエスの十字架の死」はまさにイエスのお言葉が成就したのであって祭司長の謀略やユダの裏切りが成就したのではありません。

(まとめ)
 イエスが言われたとおりだった、と2人の弟子が過越しの食事を準備したように私たちも聖書のみ言葉を「そのとおり」と信じてみ言葉に忠実に従う信仰を持ちたいものと願います。

2013/03/17(日) 「失われた二人の息子」大嶋博道
聖日礼拝 ルカ15:11〜32
(序論)
 今日は放蕩息子物語が21世紀に生きる私たちに何を教えているかという事を学びます。
この物語は「身勝手な行動を取った弟」と「父の元でもくもくと生真面目に働く兄」そして「大きな愛を持った父親」の物語です。そしてこの2人の兄弟は結局「失われた存在」であるという事を教えています。2人の兄弟が本当に赦され、回復するには父の「アガペ−の愛」が 必要でした。
 この物語が書かれた社会的背景として
@ロ−マ帝国の定めた以上の税金を徴収し、私腹を肥やしていたために罪人と言われて いた徴税人や貧しい人々
Aパリサイ派や律法学者、長老などの宗教家で当時「義人」を自認していた人々
この2種類の人がイエスの周りに居たとという事がありました。そのような時代にイエスがこの物語をされたのは15章に3つの譬え話があるように「失われたものを徹底的に探す」「失われたものが見つかったら一緒に喜ぶ」というイエスがなさった愛の業
を知らしめるためでした。

(本論)
 当時、父の財産を父の生前に要求するという事はあり得ないことで、父の存在を無視し、財産しか目に入らない常軌を超えた行動でした。そして父から貰った財産(ギリシャ語ではビオス=肉体的命)を全て無くした弟は悔い改めて父の元に帰ります。そのようなわがままで身勝手な息子に対して父はそれを赦し、「走り寄って」息子を迎えます。なりふり構わず息子を抱きしめ、良い着物を着せてご馳走を振る舞いました。
 そしてもう1つ父の驚くべき姿がありました。それは兄に対する父の態度です。弟を温かく迎え入れた父の姿に怒って祝宴の外にいた兄息子に歩み寄り、兄を大きな愛で諭します

(まとめ)
 ここから次の3つの事を学びます。
@神の無限の愛に気づく事が第1のことです。父の愛は無条件で無償で無限の愛です。
A本心に立ち返り,神のみ元に帰り神の平安を得る事が第2の事です。そのためには聖書を身近に置き、目で読み,心の耳で聴き、自分の口で聖書を唱え、魂の奥深くにみ言葉を留める事です。
B恵みの豊かさを知る事が第3の事です。
失われたものを数えずに、残された恵みを数えることです。あなたにとって神の恵みは十分なのですから。(Uコリント12章9節)
 父の元から離れて身を持ち崩した弟、父の元に居ながら満たされなかった兄、この失われた2人の兄弟を大きな愛で赦し、温かく迎えてくださった神さまの元に私たちも帰りましょう。

2013/03/10(日) 「家庭が祝福される選択」大嶋博道牧師
聖日礼拝 ルツ記1:1〜7, 1:14〜19
(序論)
 東日本大震災二周年を明日に控えてメッセ−ジの前に先ずお祈りをさせていただきます。
 さて、現代ほど家庭が激しく揺さぶられ、存在の意味や目的が問われる時代はありません。
本来、家庭は家族の生活を支え、エネルギ−を補給する場であり、人生の小さな学校であります。
 そこで、今朝はルツ記をとおして、命がけの旅立ちの選択をした二人の人物から「家庭が祝福される秘訣」を探りたいと思います。
(1)ナオミの夫のエリメレクの選択
この時代に飢饉がありました。そのためにエリメレクは100qも離れたモアブの地に移住します。モアブは異教の地、偶像の町でした。しかし、そのモアブの地をエリメレクが選んだ事は主
の御心ではなく、自己中心的で正しい事ではありませんでした。その結果エリメレクは死に、2人の息子も死んでしまいます。エリメレクの妻ナオミと2人の息子の妻しか残りませんでした。
選択ミスの結果です。モアブは決して神の導きの地ではなかったのです。
 神のみ心を知る方法は何か。
それは@聖書の御言葉に導かれる事A全てを明け渡して祈る事B説教を通して歩むべき道が示され、思いが清められる事C問題に関わっている人々のアドバイスを求める事D神が万事を最善に導いてくださると確信して選択する事です。

(2)モアブの女性ルツの選択
夫が死んだ後は実家に帰るのが当時の習しでしたが、ルツはナオミにすがりついて離れませんでした。執拗に同行を願うルツの熱意に負けて、ナオミはルツを伴って故郷のベツレヘムに帰ったのです。

(本論)
 家庭が祝福される選択について次の3つの事を学びます。
@ナオミの真実な悔い改めが家庭の祝福につながった事が第1の事です。→13節の悔い改めの必要性
Aルツの徹底した主に従う信仰が第2の事です。→16〜17節がこの事を物語っています。
Bボアズのような行き届いた配慮が祝福の基いとなるという事が第3の事です。→求める人の必要が満たされる備えと配慮の必要性

(まとめ)
 やがて、ナオミの嫁ルツはボアズと結婚して男児を産み、近所の婦人達が「オベデ」と名付けます。祖母のナオミがこの子を養育するのです。オベデからエッサイが、エッサイから偉大なダビ
デ王が誕生。悔い改めたナオミ、そして主にどこまでも従う従順な信仰を持ったルツをとおして家庭が祝福されました。「選択」の大切さをこの聖書は教えています。私たちも主のみ心に従った選択をしたいものです。 

2013/03/05(火) 「主がお入り用なのです」 大嶋博道
総員礼拝・聖餐式 ルカ19:28〜36

(序 論)
 今年は3月31日がイ−スタ−で、その一週間前の24日が「棕櫚の日曜日」(パームサンデー)で、その日から「受難週」が始まります。イエスは苦難と死をとおして人類に「救い」をもたらすためにこの世に来られました。
 今朝は、4福音書が言及しているように「最後のエルサレム入城」の箇所をとおして、幾つかのことを学びたいと思います。
 テキストの説明:
@イエスがエルサレムに上って行かれる時にオリ−ブ畑に近づかれた。二人の弟子に、向こうの村に行って子ロバを引いて来なさいと言われました。
Aもし、持ち主が「何故ほどくのか」と文句を言ったら「主がお入り用なのですと言いなさい」と言われた。
B弟子たちはイエスの言われた子ロバを見つけてほどいた。
Cその持ち主は「何故ほどくのか」と問うた。
D弟子は「主がお入り用なのです」と答えた。
E弟子たちは子ロバをイエスのところに引いて来てその上に服を掛けた。人々は自分たちの服を下に敷いて「ホサナ」と、声高く神を賛美しました。

(本 論)
 この物語から二つのことをお伝えします。
(1)何故イエスが母ロバでなく、しかも「まだ誰も乗せたことのない」子ロバを用いられたのか?
子ロバは背が低く乗りやすく、従順で荷物を運んだりするのに有益な動物で、しかも粗食に耐え、丈夫だったので当時はどの家にも飼われていました。
イエスが子ロバを用いられたのは次の3つの理由がありました。
@イエスは経験の無い人を必要とされるお方であるという事が第1の理由です。モ−セやエレミヤが用いられた時がそうでした。
A主は従順な人を用いられるという事が第2の理由です。子ロバは主人の言う通り働きます。主は従順な人を喜んで用いられます。
B主は小さい人を必要とされます。主は謙って自らを小さい者と認めている人を大切にお用いになります。

(2)「主がお入り用なのです(The Lord needs it.)」と言う事について学びます。
21世紀を迎えた現代のキリスト者は、「主がお入り用なのです」というお言葉を真摯に聴く必要があります。伝道の困難な時代であり、次代を担う献身者が不足している時代だからです。
主はあなたの伝道・牧会への積極的な参与を必要としておられ、生涯をかけて主に従う献身者を必要としておられ、様々な教会奉仕、また献げものを必要としておられるのです。主は子ロバに乗ってエルサレムに入城し、十字架の死と復活をとおして人類の救いを完成してくださいました。

私たちもこの救い主イエス様をお乗せする「子ロバ」になりたいと思います。私が子ども頃、牧師だった父は、何かにつけて「博道、主の用なり」と、魔法のようなことばをかけて、教会の働きに参加させてくれました。今も、自分には到底出来そうもない主のご奉仕を依頼された時に、「主の用なり」という父のことばが聞こえてくるようです。

(まとめ)
 私たちも信仰生活の中で「主の用なり」と信じて、これらの貴い働きにチャレンジしたいと思います。
そこにキリスト者の真の喜びがあり幸いがあり、主の豊かな祝福があるのです。


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