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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2013/04/28(日) 「狭い門から入らないと」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 マタイ7:13〜14

(序論)
 今朝は「狭い門から入る」ということはどういう事かという事について学びます。
何故、狭い門なのか?それは命の門、その門は永遠の命に通じる門だからです。キリスト教でいう狭い門とは、入学試験や就職試験でいう「狭き門」とは異なります。
 命に至る道(天国への道)には試験もなく、従って人数制限もなく、もちろん、善行に励んだり、修業を積んだりする必要はないのです。ただその門を敢えて選び、その門を通ろうという自発
的な意思や決意、すなわち「信仰」だけが求められているのです。

(本論)
 狭い門とは?それはイエス・キリストご自身です。(ヨハネ10:9)そしてイエス・キリストを信じる事、「私は門である」と言われるイエス・キリストを唯一の救い主と信じて、この信仰によって生きることこそ「狭き門」であり、そこを通ることが命に至る道なのです。主イエスが言われた「自分の十字架を負って」生きることが「狭き門」を通ることなのです。
 ジョンウエスレーが「命に通じる門、全的な聖性に至る道は狭いのです。・・・その道こそ天国に至る道」と述べているとおりです。
 また、安土桃山時代に茶道を究めた千利休はキリスト教の影響を強く受けた茶人でした。その「茶室の造り」特に「躙り口(にじりぐち)」こそ、「狭き門」を象徴していると言えましょう。
 最後に、救いに至る狭い門は何時までも開いてはいないのです。やがては閉じられるのです。
あのノアの箱舟にノアの家族が入った時に、「主はノアの後ろで戸を閉ざされた」(創世記7:16)と記されているとおりです。狭き門は狭いだけでなく、やがて閉じられる時が来るのです。
ですから、決断は「今でしょう!」

(まとめ)
 神様は全ての人が救いにいたる事を望まれて、今に至るまで忍耐をもって待っておられます。
イエス・キリストは「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる」と言っていてくださいます。今こそ、「狭い門」から入りましょう。
そこから入った者だけが真の救いを、真の喜びを、真の安らぎを得ることが出来るのです。

2013/04/21(日) 「この家に救いが」 畑中康雄勧士
信徒礼拝 ルカ19:1〜10
序論)
 聖書が書かれた時代の徴収人は罪人の1人に数えられていました。ザアカイもその徴税人の1人でした。そのザアカイにイエスは初めての出会いであったにも拘わらず名前を呼んで今日はぜひあなたの家に泊まりたいと言われます。食事も一緒にし、共に語り合い、悩んでいるあなたをありのまま受け入れてあげようとイエスは言われたのです。神様にありのまま受け入れられる事によってザアカイに「革命的な変化」が起こりました。それは罪の悔い改めです。

(本論)
 イエスは言われます。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜し出して救うために来たのである」と。さらに驚いたことに「救いがこの家を訪れた」と言われました。罪を悔い改めたザアカイと共にザアカイの家庭まで救われると言ってくださいます。
キリスト教は、人は罪を悔い改め信仰を告白する事によってとされ、赦され、永遠の み国に入る事が出来ると教えています。「神」対「個人」の関係がキリスト教の基本関係です。しかしザアカイ物語には「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハム子なのだから。人の子は、失われたものを捜し出して救うために来たのである。」[救いがこの家を訪れた。」とあります。このお言葉を素直にそのまま受け入れて欲しいと思います。
神さまを受け入れる事によって「人の子は、失われたものを捜し出して救うために来たのである。」とイエスは言ってくださると共に「救いがこの家を訪れた。」と言ってくださるのです。1人の人が救われる事によってその救いは家族全体の救いに繋がるのです。(参照:使徒16章30〜31節「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」)(まとめ) この聖書の箇所から次の事を学びましょう。@神と出会うと言う事の不思議と必然性→神さまが私を捉えてくださるという事A神を受け入れる事から与えられる救い→私と私の家族の救いB人の子は、失われたものを捜し出して救うために来た、と言ってくださるお方がキリストなる神→「救いがこの家を訪れた」「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と言ってくださる神 この神の愛により、あなたの信仰を通してあなたとあなたのご家族が救われますようにとお祈りします。

2013/04/14(日) 「あなたの信仰が受け継がれる」大嶋博道牧師
聖日礼拝 申命記6:4〜15
はじめに:
信仰の継承」はクリスチャンの使命であり責任でもあるが、これまでなかなか困難を極め、実現に至ってない。それは、信仰は個人的なものであり、押しつけてはならないという遠慮と、自らの信仰生活の不十分さ (家族に証しが出来てないという負い目)ゆえと思われる。

序 論:
 聖書には信仰の継承に成功した家族とそうでなかった家族の事例がある。祭司エリの家族も、預言者サムエルの家族も、また偉大な王ダビデにおいても、信仰の継承という観点から見ると、失敗に終わったと言っていいと思う。しかし、伝道者テモテの場合は、祖母ロイスから母エウニケへと純粋な信仰が継承され、やがてテモテにも受け継がれたのである。 (テモテ第二1:5参照)
イスラエルの民は我が子や子孫に律法を継承することに熱心であった。(申命記6:4〜9参照)
本 論:
 信仰の継承〜何を受け継がせるのか?イエス・キリストと出会い、救われたこと、神の恵みの中で喜びと感謝の生活をしていることを伝えることである。では、信仰の継承のために、私たちはどうしたらよいのか?
(1)真実な礼拝者であること―週ごとに礼拝を守り、みことば(Scriptu-re)と賛美(Song)によって喜びと感謝と希望に生きることである。

(2)継続的に祈り続けること―私たちの祈りの姿は必ず子どもや孫に霊的な影響を与える。継承が困難であっても、涙をもって祈り続けること。神は必ず、祈りに応えてくださる。あのアウグスチヌスの母モニカの祈りに応えて下さったように。

(3)「場と時」を子どもや孫に提供する―子供や孫の幼少時代に神様と交わった経験、これが大事なのである。つまり教会の礼拝の経験というものを一度でも多く持たせること。教会の様々な交わりに触れさせて、信仰の素晴らしさ、神様の恵みの世界のすばらしさを身をもって体験させること。

まとめ:
私たちは内村鑑三先生のように、信仰による高尚な生涯を後世の人々に残したいものである。
信仰は次世代にバトンされなければならない。もし、私たちがこの責任を果たせないとすれば、その結果、ひどい損害を蒙るのは子供たちであり、次の世代の人々である。彼らは主の恵みの委託物、また、キリストの福音の遺産を奪われることになって、その全ての恵みの権利を失うことになるからである。
 キリストの福音、主の恵みの喜びに感謝するだけでなくて、キリストの福音と主の恵みを委ねられたものとして、それを次の世代に正しく手渡して行く、その使命責任を今朝、深く覚えたいも
のである。

2013/04/07(日) 「希望への旅立ち〜祝福から祝福へ」大嶋博道牧師
新年度開始 総員礼拝 使徒言行録27:13〜26

(序論)
今朝はみ言葉を通して、新しい年度が希望と喜びに溢れ、祝福から祝福へと導かれるためにはどのようにすれば良いかを学びます。パウロはキリスト教を迫害する事に生き甲斐を持っていました。フィリピ3章5節以下によると教会の迫害、律法の義については非のうちどころがなかったと言っています。
そのパウロがキリストに出会ってからはキリストの伝道に使命を感じ、伝道旅行としてロ−マに旅立ちます。その伝道旅行の途上の物語が本日の聖書の物語です。

(本論)この聖書が何故書かれたかという事について大切な事を3つ学びます。
@今日の私たちの人生にも「エウラキロン(暴風)」が襲ってくるという事が第1の事です。
それは病気、人間関係のひづみ、家族の問題等々です。この世には苦難が、試練がしばしばあります。私たちの人生には計画がありますがその中で予期しない事が起こります。その時にイエスは「元気を出しなさい(心を強くしなさい、心を燃やしなさい)と言われます。暴風雨の中でパウロ自身が激しいゆれの中で「大丈夫。元気を出しなさい」と言われました。思いがけない出来事が起こった時にパウロは波風を見ずに神の聖なるご計画を見たのです。

A私たちは神に聴き従う生活〜聖書の教えに従う生活をする事が大切であるという事が第2の事です。
今日の聖書でパウロの言葉を聞かないで船長、船主という航海プロの意見に従った結果暴風雨に出会ったとあります。ここでは造り主なる神の言葉に耳を傾ける事の大切さを教えています。自
分中心の考えから本当に大切な事を中心にするする生き方が如何に大切である事を教えています。

B神の最善は私の人生で必ず成るという事が第3の事です。
27章37節によるとパウロの言葉通りした結果、276人全てが無事に目的地に着いたとあります。神のご計画は必ず成るのです。

(まとめ)
「私はあなたを祝福する」(創世記12:1〜4参照)と言ってくださる神さまに従い、祝福から祝福へと繋がる新しい年度でありますようにとお祈りします。


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