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2013/04/28(日)
「狭い門から入らないと」大嶋博道牧師
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フレンズ・サンデー礼拝 マタイ7:13〜14
(序論) 今朝は「狭い門から入る」ということはどういう事かという事について学びます。 何故、狭い門なのか?それは命の門、その門は永遠の命に通じる門だからです。キリスト教でいう狭い門とは、入学試験や就職試験でいう「狭き門」とは異なります。 命に至る道(天国への道)には試験もなく、従って人数制限もなく、もちろん、善行に励んだり、修業を積んだりする必要はないのです。ただその門を敢えて選び、その門を通ろうという自発 的な意思や決意、すなわち「信仰」だけが求められているのです。
(本論) 狭い門とは?それはイエス・キリストご自身です。(ヨハネ10:9)そしてイエス・キリストを信じる事、「私は門である」と言われるイエス・キリストを唯一の救い主と信じて、この信仰によって生きることこそ「狭き門」であり、そこを通ることが命に至る道なのです。主イエスが言われた「自分の十字架を負って」生きることが「狭き門」を通ることなのです。 ジョンウエスレーが「命に通じる門、全的な聖性に至る道は狭いのです。・・・その道こそ天国に至る道」と述べているとおりです。 また、安土桃山時代に茶道を究めた千利休はキリスト教の影響を強く受けた茶人でした。その「茶室の造り」特に「躙り口(にじりぐち)」こそ、「狭き門」を象徴していると言えましょう。 最後に、救いに至る狭い門は何時までも開いてはいないのです。やがては閉じられるのです。 あのノアの箱舟にノアの家族が入った時に、「主はノアの後ろで戸を閉ざされた」(創世記7:16)と記されているとおりです。狭き門は狭いだけでなく、やがて閉じられる時が来るのです。 ですから、決断は「今でしょう!」
(まとめ) 神様は全ての人が救いにいたる事を望まれて、今に至るまで忍耐をもって待っておられます。 イエス・キリストは「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる」と言っていてくださいます。今こそ、「狭い門」から入りましょう。 そこから入った者だけが真の救いを、真の喜びを、真の安らぎを得ることが出来るのです。
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