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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2013/06/30(日) 「真の命を得る極意」畑中康雄勧士
 信徒礼拝 ルカ16:1〜13
(序論)
 今日は聖書の譬え話の中で一番難解な譬え話に挑戦してみようと思います。イエス様は「わかりにくい事柄を分かりやすく説明するため」に譬え話をされたのですが、聖書を理解するためには、私たちはイエスが語られた時代の社会的背景を知らなければ分からない 事があります。
(本論)
 律法によれば「同胞に金品を貸す時に利息を取ってはならない」事になっていました。 (申23章20〜21節)しかし現実には利息という名前を避けながらも幾らかの利息相当のものを受け取っていたようです。今日の聖書によると管理人は、主人の財産を無駄遣いしていたのをとがめられました。そして、主人に借りのある人の負債を減らしました。つまり自分が主人の財産を無駄使いしていたのに借りのある人の負債を減らして更に主 人に損失を与えました。ところが主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を誉めます。 
 私たちは自分自身がそのような罪の上になお罪を重ねる罪深い存在である事に先ず気 づく必要があります。そして私たちは私たちの主なる神さまに負債のある存在であるにもかかわらず「私の負債を十字架に架けられた主に肩代わりして貰える」という事をここからは学び取る事が出来ます。
 この譬え話は決してこの不正な管理人の行った詐欺的な行為や不正そのものをほめたり勧めたりしているのではありません。主人に対しては不正に富を用いていましたが、神さまが誉めてくださった行為、即ち負債を負っている者に対して行った行為は、不正な事をしているとは言えない時代背景があったのです。主人は管理人が「抜け目なく行った事」を誉められたのです。「抜け目なく」とは深い洞察力、思慮深さ、賢さを意味します。主イエスは自分の弟子たちにも霊的な意味においてそうあって欲しいと思われました。

(まとめ)
 私たちが自分の物と思っている物を含め、全ての物は神の持ち物です。私たちは神さまから預けられた物を管理しているに過ぎないのです。英知を絞って、創意工夫をしてこの神から預けられた「富と機会というこの地の贈り物を天のために用いたい」ものと思います。人は「神と富とに仕えることはできない」からです。

2013/06/23(日) 「神に用いられる人」大嶋博道牧師
  フレンズ・サンデー礼拝 出エジプト4:10〜17
(序論)
 私たちは神様に用いられる存在なのでしょうか。もしそうだとしたら私たちはどのような生活を送れば良いのでしょうか。今日はこの事についてみ言を通して学びます。
まず、今朝のメッセージのテーマに対して前提となる幾つかのことがあります。
@私たちは「神の栄光」を現す存在である(Tコリント6:19〜20)
A私たちは「土の器」にすぎない、弱くて欠けだらけの存在である。(Uコリント4:7)
B主は、私たちを必要として求めておられる。(ルカ19:34)
 モ−セは最初の40年間はヘブライ人として母に育てられ、次の40年間はエジプトの王室で育てられ、そして次の40年間は「出エジプト」の指導者として聖なる働き(出エジプトの働き)をしました。モ−セは神の山、ホレブで燃える柴の中で神様の臨在に触れ、「今、我 が民をエジプトから連れ出すのだ」とのみ声を聞きます。しかし、モ−セは「私はその器ではありません」と躊躇します。そんなモ−セに主は幾つかの奇跡を行われ、ご自身の偉大な力を示されたのです。その後、神は「さあ、行くがよい」と言って、モーセを遣わしたのです。モーセは、結局、神に豊かに用いられ、イスラエルの民を、奴隷の地から約束の地カナンに導く大いなる働きを成し遂げたのです。
(本論)
 主に用いられる人とはどんな人なのでしょうか。それは、
@自分自身が聖書のみ言に養い続けられている人→み言に支配されて、導かれ、教えら れ、励まされ、支えられて生きている人です。
Aいつも祈る事の出来る人→イエスご自身は祈りの人でありました。使徒パウロも熱心に祈った人です。「祈る事」によって
(1)自分が何を必要としているかがわかります。
(2)自分が誰と共に生きているかがわかります。
(3)神からの答えを望み、忍耐して待ち続ける事が出来るようになります。
(4)神ご自身が持っておられる計画〜み心を探り、自分の思いが清められます。
(5)さらに、祈りの効果とは、神との霊的な交わりを持つ事です。
B自分の弱さと神の偉大さを自覚して謙虚に歩む人→モ−セやイザヤやエレミヤは、当初、神の召しに躊躇しました。神は「謙虚な人」、経験に乏しく、弱くて欠けのある人、「子ろば」を用いられるのです。
C栄光を神に帰する人→私の人生に起こった事は自分の手柄ではなくて神からもたらさ たものであるとして、神様に感謝して喜びを神に返す事が出来る人。
(まとめ)
 私たちは弱い欠けだらけの土の器です。しかし、神が私たちを必要とされ、用いてくださる時に、私たちは謙虚になって主に従いたいと心から願います。


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