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2013/06/30(日)
「真の命を得る極意」畑中康雄勧士
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信徒礼拝 ルカ16:1〜13 (序論) 今日は聖書の譬え話の中で一番難解な譬え話に挑戦してみようと思います。イエス様は「わかりにくい事柄を分かりやすく説明するため」に譬え話をされたのですが、聖書を理解するためには、私たちはイエスが語られた時代の社会的背景を知らなければ分からない 事があります。 (本論) 律法によれば「同胞に金品を貸す時に利息を取ってはならない」事になっていました。 (申23章20〜21節)しかし現実には利息という名前を避けながらも幾らかの利息相当のものを受け取っていたようです。今日の聖書によると管理人は、主人の財産を無駄遣いしていたのをとがめられました。そして、主人に借りのある人の負債を減らしました。つまり自分が主人の財産を無駄使いしていたのに借りのある人の負債を減らして更に主 人に損失を与えました。ところが主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を誉めます。 私たちは自分自身がそのような罪の上になお罪を重ねる罪深い存在である事に先ず気 づく必要があります。そして私たちは私たちの主なる神さまに負債のある存在であるにもかかわらず「私の負債を十字架に架けられた主に肩代わりして貰える」という事をここからは学び取る事が出来ます。 この譬え話は決してこの不正な管理人の行った詐欺的な行為や不正そのものをほめたり勧めたりしているのではありません。主人に対しては不正に富を用いていましたが、神さまが誉めてくださった行為、即ち負債を負っている者に対して行った行為は、不正な事をしているとは言えない時代背景があったのです。主人は管理人が「抜け目なく行った事」を誉められたのです。「抜け目なく」とは深い洞察力、思慮深さ、賢さを意味します。主イエスは自分の弟子たちにも霊的な意味においてそうあって欲しいと思われました。
(まとめ) 私たちが自分の物と思っている物を含め、全ての物は神の持ち物です。私たちは神さまから預けられた物を管理しているに過ぎないのです。英知を絞って、創意工夫をしてこの神から預けられた「富と機会というこの地の贈り物を天のために用いたい」ものと思います。人は「神と富とに仕えることはできない」からです。
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