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2013/08/04(日)
「いつまでヤコブなのか」 大嶋博道牧師
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総員礼拝 (聖書)ホセア12:1〜7 (序論) 今日のメッセ−ジの中心は「ほどほどの、見せかけのクリスチャンではなくて、本物の、正真正銘のクリスチャンであれ」と言う点にあります。ジョン・ウエスレーのことばを借りれば、「あと一歩でクリスチャン」ではなくて「全面的にクリスチャン」であって欲しいと願います。 「あと一歩」とは何か?それは「キリストの福音を真に経験する」言い換えれば「聖書や日曜ごとの礼拝が日常生活の中に根ざし、脈々と生きている」ということ。
(本論) 創世記28章と32章を引用した今日のホセア 12:4〜5のみ言葉は「ヤコブのままではダメ」という事を言っています。ヤコブは自分中心の生き方をしていたのです。ですから12章7節では「神のもとに立ち帰れ」と書かれています。 当時、長男は親の財産3分の2を貰える権利を持っていました。また父親から家督相続の祝福を受ける権利を持っていました。その為にヤコブは兄を騙し、偽って父親から長男の祝福を受けます。そんなヤコブでしたから悔い改めて神のもとに立ち帰る必要があったのです。神が祝福してくださるなら神に立ち帰ります、と祈りました。 この祈りは「あと一歩のクリスチャン」の祈りです。ヤコブは神に「祝福してくださるなら」と祈りに条件をつけました。(条件付き信仰) ヤコブには長男のエサウという不安の種となる存在がありました。ですから彼は神様と正面から向かい合うという事が出来なかったのです。彼はエサウと再会する前に夜通し神と向かいあったと創世記32章にはあります。 神と一晩中格闘したのです。そしてヤコブは目覚めます。その結果、全てのものから解放されます。神が全てのものを支配されている事(イスラエル=神の支配、神が闘ってくださる)を信じます。そのようにしてヤコブは神の祝福を受けました。
(まとめ) ヤコブのヤボクでの「ペヌエルの体験」こそ、全面的クリスチャンの姿です。それは、 @神との真剣な組み打ち(格闘)=人生をかけた祈りの場 A神の臨在(インマヌエル)に触れ続ける場=神のみ顔が明瞭なポイントになるように自らを置くこと。 B神から永遠の平安を実感する場=自らの上に太陽の輝きを見る。 ヤコブが「イスラエル」という名を与えられた時、「あと一歩」のヤボクの川を渡りきることが出来たのです。ヤコブからイスラエルに変えられるために必要なものは「あと一歩神に近づく」事でした。神の恵みを受けて義とされ、神との真実な平和を受けて、神の愛が私たちの心一杯に注がれた時に私たちは「あと一歩」から「全面的」クリスチャンとされるのです。私たちは「いつまでヤコブ」なのでしょうか。1日も早く「イスラエル(神の支配)」とされたいものです。 皆様の信仰生活の歩みの上に神の衆多かな祝福と平安をお祈り致します
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