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2014/10/19(日)
「網を打て、そうすれば獲れる」
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聖日礼拝 大嶋博道牧師 ヨハネ21:1〜14
(はじめに) 教会が存在する意味は@神に呼び集められた(エクレシア)共同体として礼拝するためであり、Aここから家庭や職場すなわちこの世に遣わされる(ディアスポラ)ためであります。「派遣」はすなわち伝道の働きを意味します。教会は「伝道する」群れなのです。
(序論) さて、ガリラヤ湖はイエスの3年間の公生涯において重要な位置を占めています。弟子たちの召命や大漁の奇跡、突風を静められたのもこの湖で、実に「非日常的」な神の奇跡が行われる場所を意味しています。 今朝のみ言葉によるとペテロたちが漁に出たが何も獲れなかった時に、イエスは「舟の右側に網を打ちなさい」と言われ、その通りにすると大変多くの魚が獲れたとあります。プロの漁師が何も獲れなかったのにそのプロに対してイエスが「もう一度獲るように」と、言われたのです。そしてこの時に奇跡が起こったのです。イエスの「お言葉」通りにすると沢山の魚が獲れたのです。
(本論) このみ言葉から(6節から)次の事を学びます。 @この物語は伝統的に「教会の伝道」への勧めと受け止められてきました。私たちは伝道の働きをするために遣わされていきます。「漁師」は「教会」を、「魚」は「未信者/未だ神に出会っていない人たち」を、「網」は「救いの福音」を差し示しています。「網を打て」とは伝道の働きをしなさい、と言う意味です。み言葉を宣べ伝えなさい、という勧めです。 これを私たちの日常生活に当てはめてみます。 A私たちの生活において「舟の左側に網を打ち」ましょう。 舟の右側とは、「神の権威」であり、「聖なる領域」であり、従って、「舟の右側に網を打て」とは、今までとは違う「非日常のわざ」を試みよ、という命令です。それは(1)常識を破る、新たなる挑戦(チャレンジ)であり、(2)明日の私、明日の私たちの家庭、明日の私たちのための新たなる備えを意味します。教 会の将来的計画において、私たちの信仰生活や家庭生活や職場生活において、また子育てや人間関係(近所づきあい)などにおいて「舟の右側」に網を降ろす冒険をしたいものです。
(まとめ) 「年をとって、高齢になっても、あなたが生きていく使命は未だ残っている、まだまだやるべきことがある」とヨシュア記13章1節にあります。改めて、舟の右側に網を打つ生き方をしてはどうでしょうか。それは「行く先を知らずに新たな道を歩む」(創世記12章1〜4節)生き方でもあり、冒険ですが、主が共に歩まれ、必ず祝福してくださいます。
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