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2014/07/28(月)
「新しく創造された者として」
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フレンズサンデー礼拝(大嶋牧師) (聖書)コリント第二5章16〜21節 キリスト教は「洗礼(バプテスマ)」の宗教と言われます。洗礼とは、 キリストと共に古い自分が十字架に死に、キリストと共に新しい自分が復活の命に生かされること、言い換えれば、新しく生まれ変わることを意味します。 パウロは5章17節で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と言っています。新しくされるとは「質的な新しさ」あるいは「内面的な新しさ」を言います。 (本論) ではキリスト者はどのような意味で新しく創造されるのでしょうか。 洗礼によって質的・内面的に新しくされたキリスト者は、 @神との関係において「新しくされる」という事が第1の事です。 何よりも「礼拝者」であること、讃美や祈りやみことばに生かされていること、そして「恵みによって」生かされているという確信こそ、新しく創造された姿です。 A日々の生活に於ける「言葉使い」「態度」が新しくされる、という事が第2の事です。 クリスチャンはノン・クリスチャンと比べて日常生活の中でどこか違いがなければなりません。人間は元々自己中心的な存在です。それでも立場が変われば同じ事象においても異なる感情を抱く事があります。人間関係は「双方的関係」なのですからクリスチャンはノン・クリスチャンとの関係においては相手を自分よりも優れた者として尊敬する生活を送る事によって新しくされた者としての生活を歩み出す事が出来るのです。パウロはフィリピ2:1〜4で、同じ思いとなれ、同じ愛を抱け、心を合わせ、思いを一つにせよ、へりくだれ、・・・と勧めています。
B「愛の業」において新しくされた者となるのが第3の事です。 「愛」は見えません。しかし、「愛」が見えるようにならなければ相手に伝わらないのです。愛を見える形に示してくださったのがキリストの十字架の犠牲愛(アガペー)です。私たちも日々の生活において、「少しだけ損をする」生き方をしたいものです。本当の愛は痛み、傷つき、犠牲を伴うのですから。
(まとめ) 私たちクリスチャンは新しくされた者としての姿を日々の生活の中で顕さなければなりません。キリストに出会って新しく生まれ変わらなければ幸せな人生はないのです。キリストによって新しくされて、赦し合い、愛を身につけて、キリストの平和が私たちの心を支配し、いつも感謝する事が出来るようになりたいものです。
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