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2014/08/24(日) 「平和を願うなら、まず」
フレンズサンデー礼拝 ペトロ第一3:8〜12 大嶋博道牧師

(はじめに)
  今日はみ言葉を通して「平和」について学びます。メッセ−ジをお聞きいただきながら皆様には説教題の「まず」の後ろにどのような言葉を書き加えるのか、という事をお考えいただきたいと思っています。
 8月は第2次世界大戦が終わった月です。この大戦では日本人では300万人以上、アジア各国では2千万人の方々の貴い命が失われたと言われています。犠牲者並びにその方々に連なる多くの人たちがどれほどの悲しみの日々を送られたことでしょうか。このような戦いは二度と起こしてはなりません。

 さて、「平和」とは何でしょうか。マタイ5章9節には「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」とあります。平和の意味は
@戦争、紛争がなくて世の中が穏やかな状態
A心配やもめ事がなく穏やかな状態
B力と生命にあふれた生き生きとした状態、を言います。挨拶で使われる「シャロ−ム」は「国家の平和」「個人の平安」「繁栄」「健康」「命そのものが充足」「知恵に満たされる」「救い」「勝利」などの意味が含まれています。一言で表せば「平和」は「秩序の静けさ」であると言えます。この平和の上に私たち個人の生活の安定と安心が成り立っているのです。

(本論)
 Tペトロ3章10〜11節には「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制し、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」とあります。
 ではそのためには私たちはどのようにすれば良いのでしょうか。(1)それはTエペソ2章14〜16節にもあるように、キリストが平和を作り出してくださったのだから、キリストはどのようなお方であるかという事を知る事が大切です。そしてそのキリストを受け入れる事が大切です。
(2)具体的なことをお伝えします。
 今日のみ言葉には平和をつくり出すために土台となる次の5つの事が上げられています。
@心を一つにし、同情し合い、兄弟を愛する事(8節)
A憐れみ深く、謙虚である事〜相手を自分より高く見る事(8節)
B悪に対して復讐しない事(9節)
C舌を制する事〜口をコントロ−ルする事(10節)
D悪から遠ざかり善を行う事〜自己中心にならない事(11節)

(まとめ)
 この5つの事のうちのどれか一つでも心に留めて「まず」の次にあなたが心に留めた言葉を入れて欲しいと願います。するとあなたとあなたと家族が、そして近隣が、この日本が、さらに世界が平和になります。平和の根底はキリストが何をなさったかを知り、その内の一つでもあなたが実現して行く事にあります。最後にフランシスコの「平和の祈り」をお聞きください。

「平和の祈り」聖フランシスコ
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。

2014/08/17(日) 「恵みの座に近づこう」
聖日礼拝(聖書)ヘブライ4:14〜16 大嶋博道牧師

(はじめに)
 今日はヘブライ4章16節のみ言葉を中心に「恵みの座」について学びます。
 
 
 先ず「恵み」と何か。「恵み」とは、「価しない者に与えられる神の好意」と定義する事が出来ます。それは「神はもっと豊かな恵みをくださる」(ヤコブ4:6)「この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」(ヨハネ1:16)とみ言葉にあるとおりです。
 
 
 このように恵みはそれに価しない者に与えられる神の恵みなのです。この恵みを得る手段としてウェスレ−は「聖書を継続的に、定期的に読む事」「祈る事」「集会に出席する事」「敬虔の業や憐れみの業に励む事」「仲間との交わり、特に礼拝における聖餐の恵み」を勧めています。
 
 
 「恵みの座」とは「神と正面から向き合う時と場所」具体的には「みことばと祈りによって神と真実に交わる時とその場所」が「恵みの座」と言えます。

(本論)
 では、何のために恵みの座に近づくのか。それはみ言葉によれば
@憐れみを受けるために
A恵みに与るために
B時宜にかなった助けをいただくために、
とあります。特に時宜にかなった助けを得るために恵みの座に近づきたいものです。
 

 それでは、どのようにして恵みの座に近づくのか。み言葉はは「大胆に」と教えています。「はばかることなく、遠慮したり、躊躇したりすることなく大胆に神の座に近づく」のです。ヘブライ16章16節に「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」とあります。
 
 
 ウェスレ−は毎朝4時に起床して、いつもの祈りの部屋を「恵みの座」として神に近づいたそうです。また、マザ−テレサは毎朝早く起きて「恵みの座」にひれ伏して「あなたのみ手の中で私を自由に用いてください。今日一日、愛の働きができますように」と祈りました。「恵みの座」には時を割き、魂の渇きをもって、大胆に近づきましょう。
 

 「恵みの座」に近づいたらどうなるのでしょうか。それは「私たちの魂がきよめられ」「私たちの思いがきよくされ」「私たちに新たな献身の使命が与えられ」「私たちはきよめられた生涯を歩む事が出来る」ようになります。それは
@神の純粋であり
Aキリストの模倣であり
B神と私たちの隣人への脇目もふらない愛です。
この事は心から謙ることによってのみ可能な道です。


 (まとめ)
 私たちはみ言葉に教えられたように大胆に、はばかる事なく恵みの座に近づき、今日から新たにきよめられた生涯、へりくだった生涯を歩みたいと思います。

2014/08/10(日) 「だから、恐れるな」
聖日礼拝 (聖書)マタイ10:26〜31 大嶋博道牧師

(序論)
 私たちは何かに恐れながら生活をしているのではないでしょうか。それは病気であったり、怪我であったり、また天災であったりそして、やがては誰にも訪れる死…だから聖書は「恐れるな」という言葉を365回も使って私たちにメッセ−ジを伝えています。
 さて、今日のみ言葉には「恐れるな」というメッセ−ジが26節に、そして28節と31節にあります。

@26節では、キリストの弟子たちに対して福音を宣べ伝える時に「恐れてはならない」ということが語られています。私たちの教会が伝道所としてスタ−トした時は普通の家屋に十字架を付けて伝道を始めました。その時には誰かから嫌がらせを受けるのではないかという一種の恐れを感じたことがあります。しかし、主は「恐れるな。大胆に語り続けよ。この団地には私の民が大勢いる」と強め、励ましてくださいました。

Aキリスト教は迫害の歴史でもあります。キリストを宣べ伝える時、外部から嫌がらせや中傷や時には命を脅かされるような危害を受けることが生じます。しかし、内なる魂(神と結びついた霊的命)にまで危害を加えられることはないと語っています。

B神様は全く値打ちのないような一羽の雀にさえ目を向けておられ、私たちの髪の毛さえも数えておられるお方ですから、なおさら私たちに目を向け、配慮しておられるお方なのです。だから、恐れることはないのです。新聖歌285番の「一羽の雀さえ」にあるとおりです。(こここでこの賛美歌をご一緒に賛美しましょう。)そのような神様のご配慮から私たちに「恐れるな」と語りかけておられるのです。

(本論)
 私たちは何故、恐れなくても良いのか、ということが今日の本論です。それは、

@神の眼差しがいつも私たちに注がれているから、ということが第1のことです。牧師である私にも「恐れ」はあります。しかし、神様の豊かな顧み(気配り)に出会い、神様が見つめていてくださるから「恐れ」を「恐れないで」生活していくことが出来るのです。
(参照・創世記16:13/申11章12節)

A神様は私たちの身体を、命を養ってくださる、ということが第2のことです。人はいつでも不安の中にいますが、神様がいつも私たちを養ってくださり、最善をなしてくださるから「恐れず」に生きていけるのです。詩編の23編に「主は羊飼、私は何も恐れることはない」とあるとおりです。

(まとめ)
聖書のみ言葉を土台として生きている私たちは「神はあなたの上
に眼差しを注いでくださる」「神はあなたの身体と命を養ってくださる」ということを信じて、恐れずに生きて行きたいものです。
心から感謝しながら歩みましょう。

2014/08/03(日) 「聖なる神に出会ったら」
総員礼拝  (聖書)イザヤ書6章1〜8節  大嶋牧師
(はじめに)
 今日は「神に出会うとはどういうことか」「どんな状況の時に神に出会うのか」「神に出会うとどのようになるのか」ということについて学びます。

ヤコブ4章8節では神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださるとあります。また、詩編73編28には私は神の近くにあることを幸いとし神を避けどころとするとあります。これがメッセージの鍵になるみことばです。

(本論)
 皆さんは神に出会っていますか?
 今までに出会ったことがありますか?
 長い人生の中で一番大切なことは何でしょうか。
仕事も家庭も人間関係も趣味も大切です。しかし、最も大切なこと、それは「神に出会う」ということです。

日本人の多くは無宗教であまり神仏に関心がないと言われています。しかし、元旦には初詣、お彼岸やお盆には墓参り、冠婚葬祭、成人式、七五三などの通過儀礼は神社仏閣や教会に依存します。極めて宗教的と言えます。が、残念ながら、日本人は本当の意味では神に出会ってはいないのです。(適当に、ほどほどにというのが日本人の信仰心と言えます。)

(1)では、神に出会うとはどのようにことを言うのでしょうか。それは次の事を言います。

@人生の中で神の存在を意識することが第1の事です。
Aそして、単に意識するだけではなくて神と真剣に、正面から向かい合うと言うことが第2のことです。
B神を心で信じる、神の導きに沿った生活を試みると言うことが第3のことです。
C神の存在を問うことを通して私は何者かと言うことを問うことが第4のことです。

(2)ではどのような時に神に出会うことが出来るのでしょうか。出エジプト3章のモ−セが神に出会った時の物語がヒントになります。日常生活とは異なる生活をしてみると言うことが神と出会うきっかけになると言うことをここから学び取ることが出来ます。創世記32章にヤコブが仲違いをしていた兄と20年ぶりに出会う物語があります。ヤコブはどうしても目の前のヨルダン川を渡ることが出来ませんでした。それは兄の怒りが怖かったからです。ヨルダン川を目の前にして一晩中祈ったとあります。その結果はヤコブが祈った通りになります。
 このことからも神と出会うのは順調な時よりも、「苦難の時…試練の時」と言えます。

(3)では、神と出会うとどのようになるのでしょうか。今日のみ言葉から次のことを学ぶことが出来ます。

@神が如何に聖なるお方で有り、自分が如何に罪深いものであるかと言うことに気づくようになることが第1のことです。
A神と出会うと罪が赦されると言うことが第2のことです。
Bそして人生は誰かのために生きていることに気づき「遣わされる者」となると言うことが第3のことです。

(まとめ)
 神は私たちに心を開くようにと神みずからが私たちに近づいてくださいます。人生の最大の喜びは「神が共にいてくださる」と言うことに気づくことです。これが一番大切なことです。


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