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2014/08/10(日)
「だから、恐れるな」
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聖日礼拝 (聖書)マタイ10:26〜31 大嶋博道牧師
(序論) 私たちは何かに恐れながら生活をしているのではないでしょうか。それは病気であったり、怪我であったり、また天災であったりそして、やがては誰にも訪れる死…だから聖書は「恐れるな」という言葉を365回も使って私たちにメッセ−ジを伝えています。 さて、今日のみ言葉には「恐れるな」というメッセ−ジが26節に、そして28節と31節にあります。
@26節では、キリストの弟子たちに対して福音を宣べ伝える時に「恐れてはならない」ということが語られています。私たちの教会が伝道所としてスタ−トした時は普通の家屋に十字架を付けて伝道を始めました。その時には誰かから嫌がらせを受けるのではないかという一種の恐れを感じたことがあります。しかし、主は「恐れるな。大胆に語り続けよ。この団地には私の民が大勢いる」と強め、励ましてくださいました。
Aキリスト教は迫害の歴史でもあります。キリストを宣べ伝える時、外部から嫌がらせや中傷や時には命を脅かされるような危害を受けることが生じます。しかし、内なる魂(神と結びついた霊的命)にまで危害を加えられることはないと語っています。
B神様は全く値打ちのないような一羽の雀にさえ目を向けておられ、私たちの髪の毛さえも数えておられるお方ですから、なおさら私たちに目を向け、配慮しておられるお方なのです。だから、恐れることはないのです。新聖歌285番の「一羽の雀さえ」にあるとおりです。(こここでこの賛美歌をご一緒に賛美しましょう。)そのような神様のご配慮から私たちに「恐れるな」と語りかけておられるのです。
(本論) 私たちは何故、恐れなくても良いのか、ということが今日の本論です。それは、
@神の眼差しがいつも私たちに注がれているから、ということが第1のことです。牧師である私にも「恐れ」はあります。しかし、神様の豊かな顧み(気配り)に出会い、神様が見つめていてくださるから「恐れ」を「恐れないで」生活していくことが出来るのです。 (参照・創世記16:13/申11章12節)
A神様は私たちの身体を、命を養ってくださる、ということが第2のことです。人はいつでも不安の中にいますが、神様がいつも私たちを養ってくださり、最善をなしてくださるから「恐れず」に生きていけるのです。詩編の23編に「主は羊飼、私は何も恐れることはない」とあるとおりです。
(まとめ) 聖書のみ言葉を土台として生きている私たちは「神はあなたの上 に眼差しを注いでくださる」「神はあなたの身体と命を養ってくださる」ということを信じて、恐れずに生きて行きたいものです。 心から感謝しながら歩みましょう。
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