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2015/01/04(日)
「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19
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新年礼拝 大嶋博道 はじめに: 新しい年の初めにイザヤ書30:18と19をとおして、「神の恵み」(神の愛、神の導き、神の励まし)について3つのことを考えてみたい。
1・主は恵みを与えようとして待っていてくださる イザヤ書30:18によれば、主なる神は、ご自分の恵みを私たちに与えようとして待っておられるお方です。神は私たちに無理に恵みを押しつけようとはなさらない。神は求めてくる者にしか、恵みを与えてくださらないのである。イギリスの画家ホルマン・ハントはキリストが一軒の小屋の前に立ってドアをノックしている絵を描いた。そのドアの外側には取っ手がない。イエス・キリストはノックをされるが、けっして開けて入ってこようとはなさらない。内側から、すなわち私たちが心の扉を開けなければ神の恵み、愛、導き、励ましはいただくことはできない。
2・恵みを受ける方法 ドアをたたき続けておられる主に対して、私たちはアクションを起こす必要がある。ジョン・ウエスレー(18世紀)は「恵みに預かる手段」を説いた。主な手段は3つある。(1)謙虚な心を込めた祈り。祈りの目的は祈りという管を通して神とつながり、神の恵みの注ぎを受けることである。とにかく執拗に祈り求めなさい。(2)聖書の学び。聖書は神の霊感によって書かれたものであるから、私たちも霊性を持って読む必要がある。霊性とは「神に向かおうとする心、聴き取ろうとする謙虚な心」のことである。(3)聖餐に与る。イエス・キリストの引き裂かれた体であるパンと流された血であるぶどう酒をいただくことをとおして「恵み」を受けるのである。その他、断食、善行に励むなどもある。
3・恵みを受けたらどのようになるのか ヨシュア記1:5から恵みを受けたらどうなるかを述べたい。@一生あなたの行く手に立ちはばかる者はないであろう。A私がモーセと共にいたようにあなたと共にいる。Bあなたを見放すことも、見捨てることもない。このような神の恵みの偉大さを発見したい。
まとめ 醜い争い、飢餓、災害、思いがけない事故、私たちの生活の中にも思いがけないことが起こってくる。こんな私たちが恵みなしに、神の憐れみなしに歩んでいくことができるだろうか。神が恵みを与えようとして待っておられ、私たちが恵みを受け取ることを期待しておられるのだから、恵みをしっかり戴いて「愛の人」として生きていこうではないか。 そして主イエスの恵みである十字架に目を向けよう。私たちは十字架に表わされているイエスの生き方に招かれている。十字架を背負うように勧められている。そのためには主が期待されるべき生き方を見出していく必要がある。今年は去年の繰り返しであってはならない。日々新たにされ、新しい命を生きたい。私たちは神に期待されているのだから。
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