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2015/03/02(月)
「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
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総員礼拝 (聖書)ヨハネ2:1〜11
序 論 今朝のテキストの出来事をまとめてみよう。@喜ばしい婚礼の席でぶどう酒がなくなった。(当時のイスラエルは婚礼の宴が昼夜1週間続いた。)A予定したより多くの人が集ったのか、婚礼の最中にブドウ酒がなくなるという想定外のハプニングが起こった。Bイエスの母がイエスに向かって、「ぶどう酒がなくなった」と報告した。Cイエスの母は召使に「イエスが何かを命令したらその通りに してください」と言った。Dイエスは召使に水瓶に水を入れるように言われた。Eそれを宴会の世話役の所に持っていくように言われた。F召使はそれを汲んで世話役の所に持って行った。G世話役はぶどう酒の味見をしたH世話役は「今頃までこんなに良いぶどう酒を置いていたのか」と言った。I召使たちはこのぶどう酒がどこから来たか知っていたが、世話役は知らなかった。以上である。 このところで一つの疑問がある。一体、いつ水がぶどう酒になったのだろうか。おそらく、水を瓶に浸した時に、イエスは天を仰いで祝福して祈ったのではないだろうか。召使が水がめから水を汲んで世話役に持っていこうとした時には、すでに水はぶどう酒になっていたと考えられる。 本 論 1・水を汲んだ召使だけが神の豊かな恵みに与ることができる。 召使の喜びはイエスと共にある喜びであった。召使はなんのために水を入れるのかを聞いておらず、ただイエスの権威ある言葉に従ったのである。この奇跡を花嫁、花婿、弟子、世話役は知らない。ただ水を汲んだしもべのみがこの奇跡を知ることができた。私たちも水を汲むしもべでありたい。では水を汲むとはどういうことだろうか。それは礼拝生活であり、奉仕の生活であり、み言葉と祈りのデ ボーションの生活と言える。悔い改めと新しい歩みの決心の祈りによって、喜びや感謝や明日への希望の日々に変えられる。そのような思いで、仕事・子育て、家事にいそしむ者でありたい。
2・神の豊かな恵みの運び屋とされたい。 召使たちは水を運んだわけではない。恵みのぶどう酒を運んだのである。ギリシャ語の「スネルゴイ」という言葉には「神のために力を合わせて働く者。神の同労者、神の協力者」という意味があるが、神から頂いた恵みを自分の喜びだけにするのではなく、人々に持ち運ぶ者でありたいのである。 水は汲んだのだが、水がぶどう酒になったことに気がつかないような信仰生活にならないために、詩篇103編の中から私たちに与えられている5つの恵みを見てみよう。 1・罪が赦された2・病がすべて癒された3・命が守られた4・慈しみと憐れみの冠が授けらている5・。生涯にわたってよいものに満ちたらせ、鷲のような若さを新たにされた。これらの主の御計らいを何一つ忘れてはならないのである。 まとめ 今朝のテキストの主役はイエスだが、名脇役は名も記されていないしもべたちであった。彼らが水瓶に水を汲み、ぶどう酒を持ち運んだように、私たちも素晴らしい主の恵みを知って、それを持ち運ぶものでありたい。
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