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2016/03/06(日)
信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
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はじめに 「生きている限り失敗したり、人を傷つけたりする。にもかかわらず、感謝や求める祈りはよくするのに懺悔の祈りは少ない」と、読んだことがある。確かにそうだと思う。 先だって入院した時のことであるが、朝食を頂くため食堂に行った。『田中やすひろ』と書かれたトレイがあった。私は名前を間違えられることがよくあるので、きっと書き間違えたのだろうと思いそれを食べた。しかしそれは私のではなく田中さんのであった。治療食であったため田中さんは朝食を食べることが出来なかった…その後どんなことが起こったかは後で話したい。 序 論 さて、今日はイエスがたとえて話されたことから学びたい。二人の兄弟が神が支配しておられるブドウ園で働くように命じられた。兄は働くことを拒んだが、言いつけに従わないのはいけないことと考え直してブドウ園に働きに行った。それに対して弟は承諾しながら行かなかった。この兄を罪の中で生きていると言われていた徴税人や娼婦に例えられ、弟を祭司長や律法学者に例えられた。このたとえ話をどう解釈したらいいだろうか。 ルカの15章11節の放蕩息子の話から考えてみたい。 二人の兄弟の内、弟はお父さんが生きている間に財産分与を求め、お金を持って家を出た。放蕩の限りを尽くし、それを使い果たしてしまった。兄はお父さんのそばで一生懸命働いた。その後、弟はお金が無くなったときに考え直して、悔い改めてお父さんのところに帰って行った。お父さんは本心に立ち返った弟を何も責めることはなく、謝らせることなく無条件に受け入れた。 一方、兄は無条件に弟を受け入れて大宴会をしたお父さんに不満を抱き、弟を許せず不満を述べ、家にも入らなかった。父はその兄を「あなたはずっと私といた。それは宴会よりも素晴らしいことではないか」と慰めた。 本 論 これらを通して何が神様に喜ばれることかを考えたい。 私たちは常に罪を犯す存在である。神との関係を遠ざけること事態が罪である。神との関係を回復しようとすることが赦しであり、それを待っていてくださるのが神様である今日のテキストの箇所も心から悔い改めて神様の元に帰ってきた弟が受け入られた。悔い改めたもの、思い直したもの、考え直したものを受け入れてくださるのが神である。自分がそのような立場に立った時に、神に受け入れられるのにふさわし行動をとりたい。 病院での後日談だが、すぐにその方のところにいって謝罪して部屋に帰った。すると職員が部屋にやってきて「あなたの食べたものはあなたの健康に問題はありません」と言ってくれた。昼食、夕食と田中さんと顔を合わせる度に謝った。 そのことによって心の通う時間が持てたのである。 ましてや神様は私たちが心から悔い改めて考え直したときに、神は無条件で受け入れてくださって、祝福してくださる。罪を犯したときにはあとで考え直して神のみ言葉に新しく生きるものでありたいと思う。 (説教要約:永原郁子)
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