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2005/04/08(金) ドラえも〜ん
ドラえもんの「水中でも呼吸できる」系の道具が複数種類あることに疑問を感じる。20:46
便利なもの1つにしぼっておけばいいのに。





もくじ
・存在意義




また某番組の受け売りのようになってしまうけど。

自分の存在意義って後付けなのかもしれないなぁ〜っていうのは、共感できた。
つまり、自分は「なんらかの使命を生まれつき持っている」のでなく、
「生まれてから見出すもの」だということですかね。

あわせていうなら、存在意義っていうのは、他人によって、あるいは他人の為に存在するのかなぁって。
「自分がここに居るのは、自分のためである」って哲学的な文だけど、変な話でしょ。
「誰かのためにこうする」「誰かに必要とされている」っていう時に、人は
「自分が存在する意味」みたいなものを感じるんじゃないかしらん。と。

たとえば、です。

もし、なんでもいいけど、バレー部とかやってて、素質もあったし練習もして、
チームに欠かせない存在になったとする。そしたら、顧問の先生とか他の部員にも
必要とされる人材になり、「バレー部の重要な選手」としての自分、つまり存在意義が生まれる。
ここまでは分かりますかね。


でも、もう1つ。

結論から言ってしまえば、逆に「自分の代わりはいくらでもいる」ってことです。
たとえば、それこそオリンピック選手だとか、人気も実力もある芸能人だとか、
そういう一部のすごく優れた人材でもない限り、自分の存在意義なんて薄っぺらいものなんじゃないかなぁって。

たとえば、今回「たとえば」っての多いけど、たとえば、

A君           物体B  C君

という人物配置があって、A君が
「C君、ちょっとBを持ってきてくれないか」
と頼んだとします。
ここでC君には「A君に物体Bを届ける」という使命、もとい存在意義が一瞬であれ生まれます。
大袈裟ですけど。
でも、これは「たまたまC君が物体Bの近くにいた」からA君はC君に頼んだのであって、
物体Bの近くにD君がいたり、物体Bの近くには人がいなかったけど
仲のいいE君に取って来てもらうよう頼んだり、代わりはいくらでもいるわけです。

バレー部の例にしても同様です。
もし、その「バレーうまい人」の成長が止まり、その人より上手な新入部員が入ったり、
他のメンバーが上達してしまったら、別にチームに必要なのは「自分」ではなくなるわけです。
つまり、チームに必要なのは「自分」ではなく、「バレーがうまい人」だったのです。誰でもいいのです。

極論、オリンピック選手や大統領のような世界屈指の優れた人であれ、
ほとんどの場合、必要なのは「その人」ではなく、「スポーツが上手な人」
「政治がうまい人」であるわけです。たまたま「その人がスポーツ上手だった」から必要になったまでのこと。


まとめると、存在意義っていうのは、「その人」を必要としているのでなく、
「ある事象があって、それに適した人」を求めている時に生まれるものなのかなぁ、って思った。
絶対的に、ある個人でなければならない、っていうことはないのかな、って。


もっとも、だからといって無個性で特徴もなにもない人間になってしまえば、
自分が必要とされる状況はどんどん少なくなり、存在意義も薄っぺらなものになってゆきますが。

まとまってないけど今日はここまで。





一言レス
>高峰さらださん

 MAJIDE!?うれピー!
 こっちもしようかしらん〜








そういえば、この武器ってスターグラディエーターでも使われてるよね。


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