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2005/11/12(土)
文化の融合とルーツ
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文化とか文明とか身近だけに最近暇さえあれば考えてるほっとです。
今日は音楽のこと。
なんか、久々のヒットを見つけた。 といっても、今回はマイナーな人たちではない。
米国のワールドミュージックを独占しているケルティック・ウーマンというアイルランド出身の5人組ユニットだ。
民族音楽のヒットはRin'以来で久々。 しかし、まだ日本ではデビューしてないらしい。残念。
話はかわるが、歴史や古典文化に人一倍疎い私にはいまいちこれら古典的なものにとっつきにくい。 そもそも、文学的文系学問は好きでもないし、得意でもない。
でも、文化と言うものは受け継がれる、何年も何千年も。
つまり現代文化には、古典文化の要素が所々に取り込まれているのだ。
例えば、ガンダムにインドの伝承をモチーフにしている部分があることに最近気付いた。 下のほうにア・バオア・クーについてふざけて語っているが、気になって調べた。
ア・バオ・ア・クーは、「勝利の塔」に住む幻獣で、普段は最下層で眠っており、その姿は人間には見えない。
しかし、勝利の塔を上ろうとする者があれば、目を覚まし、その人のあとについて階段を上っていく。その人が上りきったとき、ア・バオ・ア・クーは真の姿を見せ、上った人はさとりの境地に達する。
しかし、上れなかったときは、ア・バオ・ア・クーは激しい苦痛にさいなまれ、再び姿が見えなくなる。そして上っていた人が階段を下りはじめれば、最下層部まで階段を転がり落ちて気絶してしまう。
と言う話。
つまり 勝利の塔を上る者=ジオン国民。こう考えてはどうか。 つまり戦争に勝つ事を勝利の塔の頂上を上りきった事。又は最終防衛基地であるア・バオア・クーが落ちた時、それは敗戦を意味すると言う事を伝承に例え、このネーミングを選んだのではないか。
しかも、この勝利の塔があるのは、とある民族の要塞の地でもあった場所なのだ。
こう考えると実に奥が深い。
あくまでもこれは1つの例なので、このように古典文化のモチーフはあちこちにある。むしろ、その事に書いている人が気づいていない事すらあるだろう。そして、見ている側もこれら元ネタをあまり意識しないと思う。
よく、映画やアニメーション作品に対して"エヴァのパクリ"という言葉を聞くが、エヴァ自体が、様々な古典文化を取り入れてるから、同様に作られた作品はエヴァというある意味象徴的な作品に似通ってしまうのだ。まぁ、エヴァ(イヴともいう)という名前自体が、旧約聖書における"女性のルーツ"であるのだし。
そして現代のキリスト教においては、エヴァンゲリオンとは、福音(グッドニュース)の事。エヴァンゲリオンが具現化されたものとしてゴスペルがある。
また、福音伝道者を意味するエヴァンジェリストという言葉があるが、その言葉が転じて、オタクなどがそのはまっているものの良さを語りつめてくる場合、その人の事をエヴァンジェリストと言うらしい。
エヴァンジェリストと言えば、カルト宗教への勧誘や詐欺に近いネットワークビジネスへの勧誘、果ては萌えアニメや漫画への感情的勧誘とうざい事この上なしな人たちばかり。そればかりでなく良い物や好奇心くすぐられるものにも悪質なエヴァンゲリストがいて興ざめする。 もちろん良い人もいるが。
自分にされて嫌なことは人にするな。
だから俺は作品を強く勧めたりすることが嫌いだ。 また、私は第三者視点から"進めるもの"の良い事悪い事全て伝えてしまうので、勧誘的なことは出来ない質なんだなぁと思う。
話が転じまくったが、なんにしろルーツを探るのは面白い。その作品を2倍楽しめる。
久々の追記。 "エヴァのパクリ"という言葉の矛先である「ラーゼフォン」を久々に見ている。 そもそもエヴァを知らないが、この言葉はエヴァのエヴァンジェリストが作品のルーツを知らずに言った戯言に過ぎないと思う。 ラーゼフォンは"アダムとイヴ"の神話が元ネタといわれているが、"たんぽぽ娘"という作品が本当の元ネタなのだ。
The Dandelion Girl【頑張って読みました(疲)】 http://www.scifi.com/scifiction/classics/classics_archive/young2/young21.html
エヴァは、アダムとイブの神話から"人間の生きる意味"というものを探った作品であるのに対し、ラーゼフォンは夢落ちで終わったと思っていたが、それは大いなる間違いだった。
どういうことか。
そう、ラーゼフォンはたんぽぽ娘のようなストーリ展開を音楽になぞらえたSFラブストーリなのだ。
しかしまぁ、たんぽぽ娘の話があることすら全く無知な俺がよくもまあいろいろ調べたものだ。 知っていた人にはすぐ分かったんだろうな。まったく疲れたぜ。 ホントは調べた事全部書きたいのだが、ソースが曖昧なのと、ネタバレを避けるためにあえて書かない。
ただ、ラーゼフォンをサイケデリックな展開にすべきだったのかと疑問を投げかけたい。サイケ系作品は集中してみるととても疲れるし。
私は、テーマ性が強い作品は、作品のフィナーレに事の真髄が"隠されている"と考える。それを見つけるのが我々鑑賞者の楽しみでもあり、作品を面白いと感じる真髄でもあると思う。
ではまた、約束の場所で会いましょう。私たちが出会った場所で。
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