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2004/07/31(土)
ことばのたましい
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この数日、文字や言葉について考えていたら、洪水のようにそれが襲ってきて(まるで台風と呼応するかのように…)、自分で引っ張り出してきたにもかかわらず溺れそうだった。 テキスト≪の≫解読をするのではなく、テキスト≪を≫解読したいという衝動に駆られて、文字と布目・織目・編目の比較検討という荒唐無稽なことを思いついてしまったから。(これについてはいつの日か…) 余談だけれど、これって、文化人類学に疑問を抱いた挙句に、首都圏に増え続ける高齢者一人暮らしや無人の屋敷に気づいて、いっそ人家分類学をやってみたら面白かろうというのに匹敵するくらいトンデモなんだけど…
今までに私を通過し、あるいは溜まり、変化したり醸成した文字や言葉による情報が、きっとゆつくりと、再構築されていくのかな。パラダイムシフトってもうなんか、前世紀の死語のようだけれどやっぱ一言で表現すると、これかも。 入ってきた時点と今とでは、感じることも重みも違ってしまった、それどころか意味さえも変わってしまった言葉たち! そういうものをちまちま再確認し始めてしまった。そして楽しんでいる今の自分がいる。
私の個性なのかどうか、私は行為で酷いことをされても、あまり憤りを感じることは無い、もしかしてちょっと鈍いくらいかも。 でも、10〜20代は些細な言葉が刺さってしまうと、その言葉が「一人歩き」してしまって、かなり後遺症が残ることがあった。抽象的だからかえって想像・妄想が膨らみやすいところが原因だろう。その言葉を発した人と結びつけられて膨らんだ意味の固まりは、やがて私の嘆きになっていく。そして文化や文明まで呪いたくなったり。 と、こう書いてみると、じゃ、そんな言葉を言われたその瞬間に反論なり確認してすっきりさせたらよかったんじゃない、とも思う。 んんん、、、瞬間的には些細なわけだからそれがわからず、次第にでっかくなっていくのだからそれができないところがヤッカイだったのだ。 そうすると今度は自分の言葉を表現することも怖くなってくる。 自分がそうなら、他人にもそんな思いをさせるかもしれない、そうして嫌われる原因を自分からつくるなんていやじゃ〜と。それは勇気の問題だけど。 次には、敢えてよくしゃべる人に成りすましている。自分で自分を解説するために空しい言葉を添えてみて、一安心している。 それにくらべて、今は言葉にもいろんな意味で免疫力がついてしまった気がする。自分の皮膚(感覚)の外側で捉えてから招き入れるようになった気がする。 これでいいんか? これは鈍くなったのか? 自分を活かしてくれ、気づかせてくれる言葉たちにもフィルターをかけ、弱めてしまっている?
そんな不安もちょっとあるけれど、最近でも、一日中しあわせ気分にしてくれるようななにげない言葉を貰うことあったな!
ことばも技能的な面がある。だから天性の才能を備えている人と、そうでない人と。伝えることに得手不得手がある。また、気づかずに話す心理や、建前を言う心理がある。 ひとはひと、ことばはことば。いつも一致しているとは思わない。 自分だって、そう。 だから、なるべく広く受け止めていこう。 そして≪ことだま≫のようなもの、味わおう。 だって、今までに私を通過し、あるいは溜まり、変化したり醸成した文字や言葉が、私を豊かにしてくれたのだからネ。
今日は誕生日。ハリーポッター&作者と同じです、なんか嬉しい。わたしも地下の貯蔵庫にいってみる〜!
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