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2005/08/19(金)
韓国その2
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16日に、琴さんについての思い出を書いてみました。 その次の冬、もう一度韓国へ行きました。
今度は、「みよう」と思いました。 ソウルから、38度線の青瓦台という建物の見える国境線沿いへ。 途中の大通りはとても広く、滑走路として使えるそうです。 また、橋がいくつも架けられています。ちょっと不自然な気がしていたら、これは有事には爆破して落として道路を封鎖することができるそうです。 占領時代の日本が立てた建物も遺っていました。
国境沿いの、一番緊張する場所にあった守衛小屋のようなところにいたのは、鉄砲担いで、でも、 いかにも陽気そうな若いヤンキー氏でした。それがとっても印象的でした。 全くの第三者、実は主人公。 資料館や展示をいくつか見ました。
帰り際に、ふと振り返ってみました。 ひろびろとした風光明媚な風景、綺麗だなあ、奈良の都を眺めたときみたいな、穏やかな気持ちになる、と感じました。 本当はこの一帯は朝鮮半島でもっとも豊かな穀倉地帯だったが、今は田植えどころじゃないです、勿論…という話しをきいたときに、力が抜けてしまいました。 …今でも一番心に残っているのは、餓えに苦しむ人がいても、もっとも豊かな田んぼは荒れ放題という現実です。
前に仲良くなった釜山のヨンヒちゃんのお兄さんは、兵役の間の休暇で実家に戻ってきたところでした。休学中でもありました。 わたしは時代が数十年逆戻りしてしまったような目眩を感じました。 ヨンヒちゃんの家はお父さんは居なくて、お母さんが豆などを売って小さな街中の家で2人の子供を育ててきたのです。
羽織らせて貰った軍隊のジャケットは重くて擦り切れていました。 こっそり祈っておきました。〜どうかこれらのすべてが無駄になりますように、役立ちませんように、必要ありませんように、忘れ去られる世の中でありますように!〜
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