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2004/02/13(金)
合理性?
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これは、哲板のレスとして書き始めたんだけど、どうもうまくまとまらない。結局、覚え書というか、メモに過ぎないものになった。しかも、その割には長いので、2chに書き込むのはやめにした。そのかわりに、まあ、日記ということなら、多少前後が論理的にぐじゃぐじゃでも、言いたいことはあるのだから、それはそれでいいだろうと思ったので、ここにうpすることにした。
>>88->>90にレスを書いていて、自分のなかにある度し難い性癖に気づいた。性癖というよりも嗜癖に近いか。それは、演繹への執着だ。僕はエレメントを求めている。これまで僕が思考の基底に置いていたエレメントは、自己=他者の相におけるヒト、つまり人間だった。自己=他者というのは、共感次元の人間のことである。共感を通じてしかヒトは人にはならない、これがずっと僕の思考を貫いている原理であった。これは、人のあり方の基底的な相が共同性にあるという信念だと思う。これは、今流行りのエコロジー的な意味での共生とは違う。近代的個も、また共同性の一つの形式に過ぎないという意味では、「孤独」も共同性のあり方として受けとめるしかない。そのような構えをベースにして僕の思考は成立していた。
ところで、僕がフニャフニャっと腰砕けてしまったのは、感覚と言語の関係についての話からであった。それは、つまりそれ以前にあった感覚と言語についての「合理主義」的な視点が崩壊したためであったと今は考えておきたい。留保した言い方になっているのは、まだ確信がないからであるが、多分これまでの僕のその演繹嗜好も含めて、それが成り立っていた「原理」が揺らいだということにあるのではないかと思っている。では、それに代わる演繹のためのエレメントはどこにあるのか。そこが見えないのだ。
感覚と言語の関係が、少しも合理的でないこと、あるいはその癖極めて合理的な外見を有していることが、うまく頭の中でまとまっていない。多分これまでのエレメントに代わる新しい発見しつつあるのだと考えたがっているのだが、これまでの思考とうまくかみ合わない。微塵と僕の最大の差異は、合理性に対する理解の違いだと思う。現実的なものは合理的なものだというヘーゲル的な原理を徹底したいと考えている僕は、今、合理性ということについての基準を変更しなければならなくなっているのだと思う。そして、そこで行き詰まっている。
プリゴジーヌは、散逸構造の変化は予想できないとする。結果から見て過程が合理的だということが言えるだけだと。一面では、それは正しいと思う。他方では、それでは僕たちは指針を失うと思っている。先に少し述べた水平と垂直の話は、これに対する僕なりの答えのつもりなのだ。
僕たちは、社会の変革について目的志向的に語ることは、結局は全体主義に至るということを知っているはずだ。そのことを社会主義や共産主義の歴史、あるいはファシズムから学んだはずだ。しかし、一方で人が抱く目的のなかに何か貴重なものがあると僕は信じてきたし、それだけが多分僕がこれまで生きてこられた唯一の理由だとも思っている。
答えは多分既に出ている。
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