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2005/10/31(月) 生態心理学って
ギブソンの心理学は、多分心理学としてよりも、哲学的な意味合いのほうが強いのではないかという気がする。これをまた旧来の「科学」に還元してしまうのは多分間違いで、ギブソン自身が生態物理学などを構想していたことからも、新しい学問(あるいは科学)を予感していたのだと思う。ここには間違いなく概念の革命の予兆があると思われるのだが、例によってそこに何かある状態なのだ。

微塵が言うように、共感覚のモードは、その方向性の問題とともにこの問題を解く重大なヒントだと思うのだが、それはまだつかめていない。要は微塵それ自身が重大なヒントなのだw

廣松が言う乗り越え不可能な地平というのは、既に新しい地平が切り開かれたという認識だったわけだが、僕はそれについてはむしろ懐疑的だ。新しい地平を開くための幾つかのルートが見えているような状態だと思うのだ。ここに概念の革命が、多分新しい概念が見いだされることが必要なのだと思う。残念ながら、まだそこにはたどり着けていない。

勇み足かもしれないが、僕が以前から考えてきたことの一つに「主観」を扱う科学というのがある。これは、近代の科学とは全然違う何かなのだが、別の言い方をすればクオリアや、生態心理学もその重要な視点を提示していると思える。多分、これはトンデモな話でしかないが、唯識はクオリアについての経験科学の一つの先駆形態なのではないかと思ったりもする。

無理を承知で進化論的に考えると、共感覚は脳の進化の過程であらわれた逸脱であったとも言えそうだが、その逸脱こそが言語を成立させ、人の知覚の地平を開いたと考えるとおもしろい。


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