少しずつ内容が変わっていきます。写真をうpしたり、日記風に書いたり・・・
最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2005年5月
前の月 次の月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
最新の絵日記ダイジェスト
2010/04/21 もう2週間ほど前ですが
2009/11/24 鳩の巣渓谷にて
2009/11/23 鳩ノ巣渓谷
2009/11/22 今年の紅葉は少しまだら?
2009/05/25 mo

直接移動: 20104 月  200911 5 4 1 月  200811 10 月  200712 11 10 9 月  200610 9 5 4 1 月  200510 9 8 7 6 5 4 1 月  200412 11 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200312 月 

2005/05/31(火) 少し日記っぽくなってきたかもしれない
こんどやってみようと思っていますが、「自然」概念を中心に僕が考えてきた、そして今考えていることを少し風呂敷を広げて書いてみたいと思います。既にbbsの方に書いたように、僕がこの2年間いろいろと思いつきのように書いてきたことのうち、アフォーダンスと現象学の関係については、全く突飛でもなんでもなくて、現象学―ゲシュタルト心理学―生態心理学の関係を知っていれば、当然のことだったようです。ただ、これらの関係が、同時に僕の自然観に非常にうまい具合に収まったというのは、僕にギブソンさんの本を薦めてくれた微塵の炯眼のおかげだと思います。

微塵が現象学について何か語っていた記憶はないけれども、廣松についてはこの間少ししゃべってたし、廣松がマッハや相対性理論や現象学、ゲシュタルト心理学などを援用しまくった人であることは、当然知っているわけだよね。そういう意味では、微塵の現象学についての考え方などについても、一度聞いてみたいなと思うなぁ。

で、月さんもここを読んでくれていると思うので書いてしまいますが、対人関係について考える場合でも、現象学的な見方はとても役に立つと思います。現象学を学ぶのに、いきなりフッサールやハイデガーやメルロ=ポンティに食いつく必要はないと思う。むしろ、ビンスワンガー、ボス、テレンバッハとかの本などが読みやすかったりするかもしれないと思うのでつ。


さて、きょうは誰を貼ろうか。

2005/05/30(月) 何である、アイデアル(って、しってる?
きょう、帰りに「ブリタニカ草稿」(フッサール)の解説を読んでいたら、また少しわからなくなったw 本当にいい加減なんだからwww 

多重性はもそっと輻輳しているみたいで、この問題は改めてきちんと分析的に考えなければならないと思いますた。そんなに簡単に「イデー」とか「実体」と同一視できるような代物ではないというのは、今日の話でも少し出てきましたが、不変項は「客観的」に実在するイデアルなモメントであるという言い方も、一方では成立するのではないかとも思うのでつ。

廣松の四肢的構造を批判する人たちも、対象の二重性が認知構造の話だと理解している人たちがいましたが、「対象としてイデアル」なモメントが「実在」するということをどう考えるかですよね。そういう方向性は、今日の話で幾分、僕のなかでは整理されたかなと思うのです。活動によって変容する対象は、不変項自体だから・・・、あっ、頭がぐちゃぐちゃになってきた。

このイデアルなものの実在性って、微塵の例の「別の角度の外界」ともつながっている話なのかな? この辺、よくわからない。


↓あいちゅん

2005/05/29(日) 正直な話
僕は自分が何をしようとしているのか、多分よくわかっていなかったし、今でもわかっていないのだ。微塵と話してわかったことの一つは、僕が持っている大ざっぱな展望みたいなものは、もともと昔から持っていたもので、それに何か具体的な根拠があるわけでもないし、またそれを裏付けようという意志を持っていたわけでもない。それは最初から自分のなかに見えない形であって、僕を突き動かしてきた何かなのだ。そして、多分そんなことはどうでもよかった。認識の正しさといったことに気が向かないのだ。

もう一つ、僕と哲学の関係についてだが、僕はある時期から哲学に対する関心を基本的に失っていると思う。僕は自分が哲学をやっているというつもりがない。科学をやっているという自覚もないけど、むしろ哲学とは何かということを外側から見ようとしている感じなのかもしれない。つまり、哲学を内側から食い破ってやろうとは思っていないのだろう。もちろん哲学とは何かということを僕は知らないし、外側から哲学について何か批評めいたことをやろうと思っているわけでもないと思う。

このように言っていくと、すごく斜に構えているように聞こえるかもしれないが、全然そうではないと自分では思っている。普通に考えれば、どうしようもなく困難な課題であり、展望を語ること自体がデムパの世界だと思えるような大風呂敷の世界。しかし、これらの問題を解決する鍵がどこにあるのかということを考え続けてきたことだけは確かで、そこには少しも斜に構えているという意識はないと思う。

この問題を解く鍵は対人関係にあるのだという気持ちは、今も全然変わっていない。そして、それを解決するための準備は、どうも既に整っているような気がするのだ。

微塵と集中的にいろいろ話すなかで、自分のなかに兆したぼんやりとした違和感の正体をまとめると、こんなものかと今思う。これは単なる構えの確認にほかならないけれども、同時に、自分がいままでやってきたことの意味をとらえ返すことでもあると思う。そして、これがクリアになればなるほど、自分なりの展望もまたクリアになっていくと思う。

微塵の世界と僕の世界が、思いの外遠くないということは、強く感じる。ただし、微妙にかつ深刻にずれていると思う。このずれのおかげで、僕は微塵の世界観を手放しで受け入れられないし、微塵にとっても多分そうなのだろうと推察する。しかし、そんなことは本当はどうでもよくて、ただ、微塵の世界と僕の世界が共有しているある「部分」は、実はお互いに見えていない部分にあるのだと思っている。さて、ではそれが何かということは、これからの問題だと思うw

2005/05/28(土) 特にないのですが
2chの心理板でアフォーダンススレを久しぶりにまとめて読んでみた。
それで思ったのは、以前直感的に感じたことと同じなのだが、結局、
不変項が「客観的・直接的」な対象であるということが、あのギブソンさんの
文脈ではうまく言えてないような気がするのでつ。多分概念の枠組が
まだ違っているのではないかということ。アフォーダンスという概念
自体とてもいい視点を提供していると思うし、すごく教えられたの
だけど、それでもどこかに「何か違う」感が残る。これは何?

ずっと言っている現象学とアフォーダンス理論の似ていることとか、イデーと不変項の関係とか、ついbbsで最近触れた「実体」のこととか、全部つながっていると思えるのだけど、これをきちんと言えないのでつ。ぼやっと考えているだけではだめだとは思うんだけど、頭があまり動かない。ちょっと脳の活性化のために何かやったほうがよいと思えてきた。ずっと考えているのは、「演劇」とか「朗読」とかがいいと聞いたので、それをやってみようかなということなんだけど、自分の家ではとてもできないw どうしようwww

思いつきだけで書くけど、ヘーゲルにおける「論理学」の対象は概念です。ヘーゲルがいじり回しているのは、「イデー」なんだよねぇ。
ついでに「実体は主体である」というのもあったなぁ(遠い目



で関係ないのですが、
この辻が・・・スゴイと思う。

2005/05/24(火) 少しおもしろかったので
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re44.html

●最近、面白く読んだ二冊の本のなかにベルクソンをめぐる記述が出てきたので、まずその引用から始めよう。
 實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』。實川氏によると、知覚を環境との関わりの可能性ととらえる「アフォーダンス」の理論は中世以来の発想の枠組みのなかにある考えであって、百年ほど前のベルクソンによっても語られ、その後メルロ=ポンティが洗練された形で示した。この指摘は、次の文章につけられた註のなかに出てくる。
《一三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった。「現実態(アクトゥス)」とは、古代から中世の哲学用語である。それは「可能態(ポテンチア)」から、つまり存在の可能性だけある状態から抜け出して、存在を実現している状態を意味する。何だか古くさい、かた苦しい言葉づかいに聞こえるかもしれない。しかし、このような発想自体は、現代の西洋思想でも、あいかわらず、新しげなよそおいで続けられている。》

――以上引用――

これはおもしろかった。また、

――以下引用――

●これを読んで私は、永井均『私・今・そして神』の序文を想起した。永井氏はそこで、矛盾対立する哲学上の学説がいつまでも淘汰されず敬意を払われつづけるのは、「哲学が学問でありながらも、じつはなにか特別の種類の天才の、凡人に真似のできない傑出した技芸の伝承によってしか、その真価を伝えることができないようにできているからだと思う」と書いている。

――以上引用――

永井均はまだほとんど読めていないけれども、この一節には敬服する。微塵もこれに近いことは言っていたと思うけれども、僕の考え方もいくぶんかこれに近いとも言える。

ただ、僕の考え方は少し違うところもあって、世界をトータルにとらえる視点というものがもし仮にあるとすれば、その視点からは、古代の哲学も中世の哲学も近・現代の哲学も資格的に何ら差異のないものの見方、考え方なのではないかと思う。そして、僕が求めているのはこの視点なのだ。僕たちは時代の見方を超えられないという前提に立って、その上でなお上述のような視点が可能だとすれば、それはヘーゲルの理念やマルクスの前史と本史の区分といった「特権的」な立場を要請する。この「特権性」を破棄することは、逆説的にトータルな視点を獲得するための前提なのではないかと思ったりもする。

なお、画像は上記に無関係w

2005/05/21(土)
もしもし・・・、早く元気になってください。

2005/05/12(木) ガテンコへ
東京駅で撮りますた。これ結構おもしろく撮れたような。

2005/05/11(水) 車窓
仙台からの帰り、どんよりとした雲のすき間から太陽光がさしこんで。

2005/05/10(火) ベリ工から
もも(ダウンしたテレビ画像から)w


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.