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2005/05/24(火)
少しおもしろかったので
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http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re44.html
●最近、面白く読んだ二冊の本のなかにベルクソンをめぐる記述が出てきたので、まずその引用から始めよう。 實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』。實川氏によると、知覚を環境との関わりの可能性ととらえる「アフォーダンス」の理論は中世以来の発想の枠組みのなかにある考えであって、百年ほど前のベルクソンによっても語られ、その後メルロ=ポンティが洗練された形で示した。この指摘は、次の文章につけられた註のなかに出てくる。 《一三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった。「現実態(アクトゥス)」とは、古代から中世の哲学用語である。それは「可能態(ポテンチア)」から、つまり存在の可能性だけある状態から抜け出して、存在を実現している状態を意味する。何だか古くさい、かた苦しい言葉づかいに聞こえるかもしれない。しかし、このような発想自体は、現代の西洋思想でも、あいかわらず、新しげなよそおいで続けられている。》
――以上引用――
これはおもしろかった。また、
――以下引用――
●これを読んで私は、永井均『私・今・そして神』の序文を想起した。永井氏はそこで、矛盾対立する哲学上の学説がいつまでも淘汰されず敬意を払われつづけるのは、「哲学が学問でありながらも、じつはなにか特別の種類の天才の、凡人に真似のできない傑出した技芸の伝承によってしか、その真価を伝えることができないようにできているからだと思う」と書いている。
――以上引用――
永井均はまだほとんど読めていないけれども、この一節には敬服する。微塵もこれに近いことは言っていたと思うけれども、僕の考え方もいくぶんかこれに近いとも言える。
ただ、僕の考え方は少し違うところもあって、世界をトータルにとらえる視点というものがもし仮にあるとすれば、その視点からは、古代の哲学も中世の哲学も近・現代の哲学も資格的に何ら差異のないものの見方、考え方なのではないかと思う。そして、僕が求めているのはこの視点なのだ。僕たちは時代の見方を超えられないという前提に立って、その上でなお上述のような視点が可能だとすれば、それはヘーゲルの理念やマルクスの前史と本史の区分といった「特権的」な立場を要請する。この「特権性」を破棄することは、逆説的にトータルな視点を獲得するための前提なのではないかと思ったりもする。
なお、画像は上記に無関係w
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