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2005/06/06(月) 不完全ながら断定してみますた
実体とかイデーとか不変項とか、よくわかってもいない概念を次々に繰り出しては、さらに観念の迷路に踏み込んでいるような僕ですが、実は、実体・イデーという概念は僕には理解不可能なものなのでした。今も理解できたと言うつもりはありません。ただ、微塵スレ以来の一連の話のなかで、もしかしたら、不変項と呼ばれいてるものと実体やイデーと呼ばれているものが、共通の何かを指しているのではないかということを思いついたに過ぎません。これをきちんと論証するには、またしても、僕自身が哲学的概念の海を上手に泳げなければならないという問題が発生します。そして、それこそが僕が最も苦手とするところです。ですから、この作業は多分当面不可能であり、あるいは僕個人としては死ぬまで不可能である可能性が大だと思います。

僕にとって「主観」とは何かという問いは、いつもぼんやりと問題になってはいても、それ自体を主題的に考えたことはありませんでした。僕のなかでは、それは多分「分極」という言葉で済んでいることなのです。この場合、「分極」には絶対的な意味はありません。そして、主観の内容は実は客観的なものであるということが、僕の考え方であるということは既に何度も述べてきました。つまり、この主観の内容とされているものと、客観とされているものは、理論的に不当に分割されているのであって、本来区別すべくもないということです。このことを思惟や思想の客観性、あるいは自然としての観念という言葉で言ってきたと思うのです。ですから、僕たちが世界を対象としているとき、僕たちは世界です。この世界は、そういう仕方でしか存在し得ないという意味で絶対的な世界です。強いて逆説的な言い方をすれば、世界は主観的な様式でしか存在し得ないし、その意味で「独我論」的な世界だと言ってもいいと思います。

しかし、ここで言っている主観は伝統的な主観とは違うものです。ここでは生体の活動としての主観という言い方をしておきます。

主観を抜きにして世界を論じることができるのは、僕たちが「抽象力」を持つからですが、そのようにして見られた「客観世界」は、主観を「客観的」に含んでいます。この場合の「客観」は、生きた主観世界を「消去」して見られた世界です。ですが、これ自体は一つの抽象物であって、それが依って立つ基盤である主観を「消去」することによって、一種の「擬制」として成立する世界観の一つであると考えられます。

ところで、この「擬制」としての世界観は、決して恣意的に構築されたものではないし、また逆に恣意的に壊したり、否定したりできるものでもありません。間違いなく必然的な世界観であって、それには立派な根拠があると考えられます。その一つが自然科学なのです。自然科学は、その基底に主観を含んでおり、実証主義は主観を消去してはいません。ただ、その記述において主観を「消去」しているだけです。本当には消去することはできません。科学が「哲学」を常に暗黙に前提していると考えられるのもそのためです。

MOMO2


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