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2005/06/09(木)
愚痴みたいなもの
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やっぱりピアジェなのかなぁと、ふとおもた。発生的認識論という構えはどこか好きなのだ。なぜ好きかというと、そこには人の認識の歴史的なパターンを理解しようという前向きな志向があるからだ。僕は、学生時代に「世界史の総括」という構えを持った。これは、単に近代をアウフヘーベンすれば前史が終わると考えるのではなくて、真に前史を終えるためには、世界史の総体を概念的に把握し、その全体をアウフヘーベンするプロセスを経なければならないと考えたのだ。その鍵は、近代と前近代の関係そのもののうちにあると思えるのだ。
僕は、市民社会と共同体という対比をこれまでも微塵スレで何度か触れてきた。近代社会の原理を全近代社会に対して包括的に優位なものと考えるのは単なる近代主義だと思う。共同体の意識と市民社会の意識は、多分相補的であり、その両者はいずれも人類にとってかけがえのないものなのだ。しかるに、近代は前近代を正しく理解してこなかったと思えてならない。
ピアジェから感じたアイデアは、幼児期・小児期の人間が持つ「生気論」的な意識と、その後の「脱中心化」した意識とが、前近代と近代の関係とパラレルであるということなのだ。これは、偶然の一致ではあり得ないから、人の思想の形成というプロセスが、進化における系統発生と個体発生の関係のように再生産されていると感じたわけだ。これと、「自然としての意識」とは無関係ではないことは明らかだと思う。そして、例えば「生態的心理学」は、その差異に対してアプローチする一つの正当な視角を提示しているように感じたりもする。
まあ、この辺は単なるアイデアでしかなく、とても直感的な思いつきレベルの話であって、これをきちんと記述することは僕の手に余る。難しいとつくづく感じる。やっぱ愚痴だね、こりゃw
珍しく色気のある?tomoyo
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