少しずつ内容が変わっていきます。写真をうpしたり、日記風に書いたり・・・
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最新の絵日記ダイジェスト
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2005/06/05(日)
「思想」(岩波書店)の2月号と4月号に「知覚は誤らない――認識へのエコロジカルアプローチと知覚の倫理学――」という論文が出ていました。bbsでリンクを張った染谷昌義の文章です。また知覚系の話ですが、興味があったら読んでみてください。僕は導入の仕方が理解しにくくて、まだ読めていません。


miyabee

2005/06/04(土) 頑固親子
あいぼんがひとすじ、ののがふたすじの兄弟だよ

2005/06/03(金) 自然と自然
一昨日書いた自然のことだけど、自然は最初から関係の中にあるというか、関係そのものなんだよね。だから、何とどう関係するかということにおいてしか事物をとらえることはできないと思うのだ。人間と自然の関係もそのとおりで、人間自体が自然であるということだよね。自然のありようの一つの形が人間だということに過ぎないわけ。で、その人間が外界の自然とかかわる一つの形式が知覚です。知覚は実は単独では存在しないヒトの活用様式のうちの重要ではあるけれども一部でしかなくて、僕たちが知覚を理解するためには、まずヒトの活動を理解する必要があるのだと思うのでつ。

そんな中で、人は自然を理解しようと努めてきたんだけれども、人に最も近い自然は人間そのものだから、人を知ることが自然を知る最も手軽で確実な方法なんじゃないかなと、僕は昔考えますた。そして、それは今でも変わっていません。自然は偉大だとよく言いますが、人間も自然ですから、人間も偉大だとならなければなりませんねw


しばらくモー娘。シリーズ続くよw
何しろ、画像は死ぬほどあるし、動画もハードディスクが
あふれるほどイパーイあるから、材料には苦労しないにょ。

こんこん

2005/06/02(木) 倒錯とか・・・
理論の要に倒錯・錯視といった概念を持ち込むことは間違いだという感覚を持っている。例えば廣松なら「物象化」、マルクスなら「物神性」という具合で、これらは基本的に誤っていると考えている。普遍的・包括的な倒錯や錯覚の上に人類の世界観が成り立っているという考え方は採用できないと思う。逆に、これらは理論や思想に伴う立場上の固有の錯誤であろうと考えている。ギブソンの考え方は、この点でも僕の考え方にしっくりくるものだったのだ。


ダブルユーでーす。

2005/06/01(水) 知覚の存在論(・_・)...ん?
多分、問題は「不変項」の認識論ではなくて、存在論なんだろう。これを知覚のダイナミックなあり方としてきちんと把握できればいいのだと思われる。動的不変項や複合的不変項など……。アフォーダンスは、価値が客観的なものであることを示したとして、知覚の問題としてはむしろ不変項の存在が解かれねばならないと思う。知覚は、そもそも生命が世界にかかわる形式そのものだろう。それ以外にはかかわりようがないのだから。

少し観点を転換して


実践とは相互作用のことであり、相互作用とは変容的な相関のことです。自然は基本的に相互作用のプロセスであり、相互作用を通じて変容する関係の総体にほかならないと言えます。我々はこの変化を知覚するのであり、形式は変化を前提にそれを内部に自己関係として保有するものです。(って、何を言ってんだか、自分でもよくわからんw


めがねっ娘。 亀


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