少しずつ内容が変わっていきます。写真をうpしたり、日記風に書いたり・・・
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最新の絵日記ダイジェスト
2010/04/21 もう2週間ほど前ですが
2009/11/24 鳩の巣渓谷にて
2009/11/23 鳩ノ巣渓谷
2009/11/22 今年の紅葉は少しまだら?
2009/05/25 mo

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2005/07/29(金) まだまだだけど
プリゴジンも栗本も読み終わらないうちに貸出期限がきて返却。同時にギブソンも読んでいて、しかも休み休みだから、なかなか進まない。やっぱりギブソンはおもしろい。栗本も半分近く読んだと思うが、それなりにおもしろいと思う。層の話はわかる気がする。
今は全然まとまっていないけれども、不変項が何なのかということについては、ギブソンが予感しているように、かなり重要な視点が隠れているという感じがますます強くなってきた。結論を急がず、じっくり考えたい。

これは「時をかける少女」撮影中のスナップらしい

2005/07/15(金) そろそろ暑くなりそうな
現象学を後回しにして、プリゴジンと栗本を少しずつ読んでます。栗本のは、割にわかりやすい感じがする。こういう感じの文章を昔はよく読んでた気がする。まだ本題に入っていないので中身については何も語れませんが、普通におもしろそう。大学の後輩の1人が栗本にはまってたことを思い出しました。当時はあまり興味がなかった気がする。

「実体」について言えば、僕が実体を感じているのではなくて、昔の人が実体と呼んでいた何かって、これかなぁという感じがしたということ。結局発想の基盤と文脈が違うだけで、言葉は理解できなくなる。でも、みんな同じものを見ているわけだから、人に何がどう見えているのかということを理解することは、結構大事なことなんだと思う。前に言ってたイデーもそう。あ、これってイデーかなと思うのは、僕がプラトン主義者になったということではなくて、プラトンの見ていたイデーの一端でも垣間見れたかなということ以上の意味はないのです。本当はイデーを理解するのはもっと大変だろうし、実体という概念もそんなに安易なものじゃないだろうとは思うんだけどねw

高橋愛

2005/07/13(水) 読書について
短期記憶がだめになってきているという話はしました。
本を一度読んだだけでは、ほとんど記憶に残らない。これはやばい。
だから、きちんと理解して、それを素材にものを考えるためには何度か読まないといけないということらしい。それでなくても、本を読むのがめんどくさいのに、何度も読まなければいけないというのは、結構つらい。(T-T)

2005/07/12(火) てなことを言いながら……
「これが現象学だ」を読んでます。やっぱり折々に読んできた現象学についての断片に自分がかなり影響されてきたんだということがわかります。以前は「思想」とか「現代思想」とかを一生懸命読んでいた時期もあって、そんななかで現象学に関する論文もずいぶん読んだと思う。ただ、惜しいことには何を読んだかも記憶にない。だから、現象学の理解もかなりテキトーで、改めて現象学とは何かと言われると、よくわからなくなります。だから、この新書はすごく(・∀・)イイ!!。

それにしてもおもしろい。竹田の現象学とは一味も二味も違うんだけど、僕にとってはわかりやすく親しみやすい現象学になっています。これが終わったらギブソンを読み始めようと思います。そんでもって、また主著ももう一度読んでみよう。

フッサールの初期の著作「論理学研究」とかは、今でも全然読めないし、読もうとも思っていませんが、読みやすくて中身の詰まったのってどれだろう。

「momo」

2005/07/11(月) 哲学的懐疑への「懐疑」
僕はもともと哲学に対して強い執着はないし、むしろ素朴な相対主義と虚無主義とでも言えばいいようなかなり淡白な世界観がベースにあります。最初から「絶対的真理」への希求みたいなものはなかったし、「独我論」的な問い詰め方もしないのです。そのレベルでは、多分どれも一面的な思い込みに過ぎないだろうという見方をしてきました。

では、僕の考えていることは何かというと、「見える」ということへの問いです。なぜ人には世界はかく見えるのかという問いです。あるいは、同じことですが、世界はなぜこのように多様に見えるのかという問いです。多様性の統一とでも言えばいいのか、僕が目指しているものは、この多様な「見え」を有する世界とは何かという、その存立の仕方についての興味なのです。ある「見え」は世界が個体に強制するもので、その「見え」の共有という形で僕たちは世界に参入するのだという考え方が一方にあります。

他方で、では僕たちはその「見え」から「自由」であり得るのかというのが、もう一つの問いです。この「自由」とは一定の「見え」からの「自由」であると同時に、他の「見え」への自由であると言ってもいいと思います。「見え」の多様性は、根源的には共同体由来の排他的な同一性を根底に持っていると思えます。しかし、また共同体内部においても「見え」の多様性はあったのだと思えます。

多様性とは「差異」ですから、「見え」からの「自由」は「見え」への「自由」であると同時に、「見え」の差異への開けと考えることもできます。(中断)

風呂入ってくる。

もうちょっと明確に言うと、「見え」は必然だから、それ自身現実的ではあるのだと思う。「見え」が恣意的だということはないと思うし、それゆえに恣意的に肯定されたり否定されたりするべきものでもないと思うのでつ。然るべき位置にあるのだという以外に言いようがない、そのようなものとして「見え」はあって、それがあらゆる世界観のベースなのだと。

よく見ると、タイトルと中身が関係なくなってしまってる。orz

ミラクルを含む10人

2005/07/05(火) 気楽に
気楽になったら書けるかというと、そうでもなくて、少しずつ本を読み進めることにします。
「これが現象学だ」を読み返して、それから「生態学的心理学」の方へ進みたいと思います。
この辺やっぱり難しい問題が山積している感じ。微塵、まだーw

えりりんとくすみん
しかし、亀さんの表情に微妙な陰りを読み取ってしまうのは、いささか過敏なのだろうか。


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